数々の名句を生んだ松尾芭蕉の紀行文「おくのほそ道」。 俳聖として弟子も多かった芭蕉に囁かれるのが 「おくのほそ道」は歌枕を巡る旅ではなく 幕府に依頼された密偵の旅という隠密説。 果たして本当にそうだったのか? 先祖は伊賀忍者? 旅の主役は実はお供の曾良の方? そして旅立ちから千住での「空白の7日間」。 芭蕉はここで何をしていたのか? 見え隠れする幕府との接点! 幕府と芭蕉を繋ぐ真の黒幕とは! 旅の終着点で詠んだ芭蕉の句の思いにも迫る。
天正10年6月2日。明智光秀の謀反により本能寺の変で自害した戦国の覇者・織田信長。49年の生涯の中で、信長の名を最も天下に知らしめたのが「桶狭間の戦い」です。 2万5千ともいわれる今川の大軍に対して、信長軍はわずか2千余りでした。一体、何が信長に勝利をもたらしたのか? 城下の民にまで大うつけと揶揄されていた青春時代。 信長は本当に愚か者だったのか?伝説に隠された信長の裏の顔とは? 天下に名を轟かせた桶狭間の戦い。圧倒的に不利を覆した、決断とは? 信長を勝利に導いたのは、天候だった?最新の気象学でその真相に迫ります!
金閣寺の建設者・室町幕府三代将軍である足利義満。 室町幕府に絶頂期をもたらした義満はどのようにして 権力を手中に治めていったのか? 時の上皇が突然の自殺未遂!? 義満の女好きが巻き起こした衝撃の大スキャンダルとは!? 金閣寺で有名な鹿苑寺の敷地内から発掘された破片! 前代未聞の巨大な塔に込められた義満の大いなる野望とは? 栄華を極めた最中の突然の死!? 義満の死因は本当に暗殺だったのか? 天皇を超えた男の生涯に迫ります!
今回は、江戸時代最後の天皇・孝明天皇を取り上げる。 開国を迫る欧米列強が度々来航し、安政の大地震に、コレラの流行。 そして倒幕を企む勤皇の志士たち…未曾有の国難が次々に襲いかかって来る激動の時代に、天皇はどのようにして立ち向かっていったのか?
今からおよそ1万年前の縄文時代。 私たち現代日本人のルーツを言われる縄文人はどこから来て、どんな生活を送っていたのか? 縄文人は毛皮を着てケモノを追いかけていたというイメージは間違い? 実は、ハンバーグやクッキーまで作るグルメ人だった!巨大遺跡が語るその意外な暮らしとは! 最新のDNA鑑定によって新事実が判明!縄文人は世界でも類を見ない独自の種族だった? 全国で発掘された土偶、なんと1万2千点以上!その多くが破損しているのは、縄文人がわざと壊していたからだった? 一体、なぜ! 骨から驚きの真相が明らかに! 縄文人たちも介護をしていた? 現代に通じる1万年前の社会生活とは? これまでの縄文人像が次々と覆る?お楽しみに!
日本はどのように誕生し、国家となっていったのか… この疑問に答えてくれる貴重な資料が、 日本初の国家公認の歴史書といわれる『日本書紀』である。 今から1300年以上前の飛鳥時代に、 第40代・天武天皇の命によって編纂が始まり、 およそ40年もの月日を費やして奈良時代に完成した。 そこには神々による日本の創生と、歴代天皇家の事績が記され、 “日本の歴史”として時を超えて読み継がれてきたが… そこに記されていたのは、 天武天皇をはじめとする時の権力者たちが都合よく作り変えてしまった “虚構の歴史”であった… 大海人皇子と大友皇子が皇位を争った、古代最大の内乱“壬申の乱”。 これに勝利し、天武天皇となった大海人皇子が日本書紀によって隠蔽した 不都合な真実とは? 大化の改新の発端となった蘇我入鹿の斬殺。 しかし入鹿は悪人ではなく、 中大兄皇子と中臣鎌足は事件の首謀者でもなかった? 日本書紀によって改ざんされた事件の意外な真相とは?
今から1800年以上前の弥生時代、日本は「倭国」と呼ばれていた。 長い間、内乱が続いていた倭国を治めた人物が日本最古の女王・卑弥呼。 ところが、卑弥呼という名は日本の歴史書には一切記載されていない。 その名が登場する最も古い史料は、中国の歴史書『三国志』の一部、「魏志倭人伝」。 卑弥呼とは一体何者だったのか? 日本初の女王と言われる卑弥呼。 なぜ彼女が選ばれたのか? 「魏志倭人伝」には、卑弥呼は「鬼道」に仕えたとある。 「鬼道」とは一体何か? 卑弥呼の正体について江戸時代から論争が続いているが、未だわかっていない。 日本の歴史書から、卑弥呼の正体を徹底検証! 実は卑弥呼は女王じゃなかった!? さらに、死因についても様々な説が。 自然死?戦死?卑弥呼の死の真相とは!? 古代史最大のミステリー、卑弥呼の正体に迫る!
天正10年(1582) 6月2日。 京都・本能寺に宿泊中の織田信長を明智光秀が襲撃! この時、本能寺にほど近い妙覚寺に宿泊中の嫡男・信忠も自刃に追い込まれた。 この戦国史上最も有名な事件を目撃したのが、意外にも黒人のサムライ「弥助」。 一説にはモザンビーク出身とも言われる弥助は、イエズス会の宣教師の荷物持ち・護衛役として来日。 そんな弥助がなぜ織田信長の家臣として取り立てられたのか? 本能寺の変の最大の謎が織田信長の遺体の行方。 実は、信長の遺体は極秘裏に本能寺から持ち出されていた! 弥助を手助けした意外な人物とは? さらに、なぜ弥助は助命されたのか? 明智光秀がとった行動から浮かび上がる本能寺の変の黒幕とは? 黒人サムライ・弥助の目から見た本能寺の変の真相に迫る。
「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座りしままに 食うは徳川」。 天下取りを餅つきに例え、家康は信長と秀吉のいいところだけをうまいこと引き継ぎ、苦労せずに天下を取ったというのだが・・・ 実は家康の前半生は忍耐を要する苦難に満ちたものだった! 今回はそんな家康の若き日を鑑定!
本能寺の変で主君である織田信長を討った、 “天下の謀反人”こと明智光秀。 事件直後から逆賊と呼ばれ、裏切り者の代名詞となってきたが… 戦国時代研究の第一人者・小和田哲男氏はこう言う。 「本能寺の変は光秀の世直し…鬼退治だった」 本能寺の変は、鬼と化してしまった信長を成敗した 正義の戦いだった… 果たして光秀は、天下の謀反人か?鬼退治をした名将か? 残された史料が非常に少ない謎のダークヒーロー 光秀の真実に迫る。
青森県中央部に位置する名峰・八甲田山。 今では格好のスキー場として人気を博しているが…明治35年(1902)1月、死者199人という”日本山岳史上最悪の遭難事件”が発生。 大日本帝国陸軍の歩兵部隊が雪中行軍の演習中に遭難し、多くの命が失われた。 そもそもなぜ、”日本山岳史上最悪の遭難事件”は起きたのか? 遭難の原因は悪天候による天災か、それとも人災だったのか? 酷い低体温症に陥り、凍傷にかかる者や幻覚を見て錯乱する者が続出!壮絶な遭難現場とは? 本格的な救助が開始されたのは、遭難から6日後!? 救助が遅れた原因は、ある男の一言にあった? 小説や映画のモデルとしても知られている『八甲田山雪中行軍』。 その遭難の真相に迫る!
平家の栄枯盛衰を綴った軍記物『平家物語』。 その最終巻は、平家滅亡後も生きながらえた建礼門院 徳子の物語である。 出家し、京都・大原の寂光院で平家一門を弔っていた徳子。 そこで平家を滅亡へと追いやった張本人である後白河法皇と密会。 徳子は自らの人生を仏教の六道になぞらえ語り始める… 清盛の娘として入内し、国母になった徳子。 栄華を極めた平家一門だったが、木曽義仲率いる源氏軍に攻められ、都落ちしてしまう。 壇ノ浦で平家が滅亡するまでの壮絶な日々とは!? 徳子が兄・平宗盛と近親相姦?義経と密通? 大スキャンダルの裏には『平家物語』の意外な事情があった!? 建礼門院 徳子の悲劇から、『平家物語』の秘密に迫ります!
“甲斐の虎”と恐れられた名将・武田信玄を父に持つ、武田勝頼。 “天下人”豊臣秀吉を養父に持ち、関白までつとめた豊臣秀次。 実はこの二人には、共通点がある。 共に無念の死を遂げ、死後数々の汚名を着せられているのである。 勝頼は、名門・武田家を潰したことで、“不肖の息子”、“愚将”と蔑まれ、一方、秀吉に対し謀反を企てた秀次は、“暴君”、“殺生関白”との悪名はせることになる。 本当にそうなのか? 二人のことを調べていくと、意外な事実が浮かんできた… 勝頼は、あの徳川家康をあと一歩まで追いつめ、父・信玄より戦上手だった? 武田家を潰したのは、火山が噴火したためだった? 秀次は、“暴君”どころか、領民から慕われていた? “罪なき人を千人斬り”、“殺生禁止の鹿狩り”など、今も語り継がる秀次の悪行の数々は、でっちあげだった? 今回は、偉大な父を持つ、武田勝頼と豊臣秀次の実像に迫る!
116年前の明治37年(1904)2月10日、日露戦争が始まりました。 そして、当時、東アジアの新興国だった日本が大国ロシアに勝利したのです。 無謀とも思えるこの戦争で、日本はなぜ勝つことができたのか? 勝利に導いたのは男たちのある決断でした。 史上稀に見る激戦、203高地の戦い。 追い詰められた陸軍第三軍司令官、乃木希典の苦渋の決断とは? 世界最強のバルチック艦隊を撃滅! 連合艦隊司令長官、東郷平八郎の起死回生の秘策とは? 講和を成功へと導いた外務大臣、小村寿太郎。 その知られざる交渉術とは?
明治維新から22年・・・ 近代国家を目指し制定された日本初の憲法が「大日本帝国憲法」。 その憲法制定の中心的な役割を担ったのが伊藤博文。 明治6年(1873)、明治政府より憲法制定に向けての調査を命じられた伊藤博文。 維新の功労者 木戸孝允・大久保利通の遺志を受け継ぎ、重責を担う覚悟を決めた伊藤。 しかし、その前にはいくつもの壁が立ち塞がることに! 早期の国会開設と憲法制定を求める自由民権運動。 伊藤を出し抜き極秘裏に憲法制定の準備をすすめる大隈重信。 そして政府随一の法律通の天才官僚・井上毅。 さらには、肝心の明治天皇までが… 現在の「国のかたち」を決定づけることになった一大プロジェクトの舞台裏と伊藤博文が近代憲法成立に託した想いに迫る。
足利尊氏から始まり、およそ240年続いた室町幕府。 その室町幕府を滅亡させ、最後の将軍となったのが足利義昭。 織田信長の後ろ盾で将軍になったため、信長に操られていた無能な将軍、“傀儡将軍”と言われた義昭。 しかし、本当にそうだったのか? 29歳で人生が一変! 僧侶として一生を終えるはずが、兄の暗殺に自らは幽閉・・・ そこから如何にして将軍となったのか? 信長から突きつけられる痛烈な「ダメ出し」! 義昭は天下統一を目指す信長に利用されただけだったのか? 義昭、突然の裏切りで反信長に寝返った! なぜ義昭は信長と戦うことを選んだのか? 室町幕府滅亡の真相に迫る。
北近江の戦国武将・浅井長政と織田信長の妹で 「戦国一の美女」と評判だったお市の間に産まれた浅井三姉妹。 天正11年(1583)年、母親のお市が越前北庄城で自害した後、 秀吉のもとに身を寄せることになった三姉妹だったが、 やがて3人はそれぞれの道を進んでいくことなる。 秀吉の側室として秀頼を産んだことで 豊臣家の実権を握ることとなった長女・茶々。 豊臣家の命運を託された茶々が なぜ徳川家との最終決戦に突き進んだのか? 近江の戦国武将・京極高次のもとに嫁いだ次女・初。 大坂冬の陣の和睦交渉では豊臣方の交渉人として 和平の道を探るべく最期まで活躍! さらに、徳川秀忠のもとに嫁ぎ、 奇しくも姉・茶々と敵対関係になってしまったお江。 それぞれの宿命を背負った三姉妹が 戦国最期の決戦・大坂の陣にどのように関わったのか? その運命の行方に迫る。
およそ700年前の室町時代。 現存する日本最古の舞台芸術「能」を生み出した2人のスターがいた。 観阿弥と世阿弥である。 2人は滑稽さを楽しむことが多かった「猿楽」を 「能」という洗練された舞台芸術に高めていく。 それには、観阿弥・世阿弥親子それぞれが持つ才能だけでなく、 時の権力者の存在が大きく関わっていた。 今回は、観阿弥・世阿弥親子の人生を 室町幕府の3人の将軍との関係から迫っていく。 室町殿と呼ばれた将軍をパトロンに! 室町幕府3代将軍・足利義満を取り込むため、 観阿弥が仕掛けた一世一代の大勝負とは! 4代将軍・足利義持ご贔屓のライバルに対抗するため 息子・世阿弥が芸の道に精進。 その果てには、新たな能のスタイルを生み出した!? 6代将軍・足利義教からは冷遇された? なぜ、世阿弥は佐渡へ流されたのか? 芸に一生をかけた男の生き様に迫る!
仏教が日本に伝来してからおよそ1500年。 その教えや祈りは、様々な国難や厄災に苦しめられてきた人々の心に寄り添ってきた。 そうした歴史の中で、厳しい修行の道を選び 自らの信念を貫き生きた僧侶たち。 彼らが実践した「教え」の中には、現代にも通じる知恵がある。 今回は、空海・日蓮・一休 の三人の名僧の教えを通し、 苦難に立ち向かう方法を探っていく。
戦国のカリスマ…覇王などと呼ばれる、織田信長。 なぜ信長は、群雄割拠の乱世を制し、 天下統一に王手をかけることができたのか? それは、常識に捕らわれない自由な発想と、斬新な改革にあった。 戦国時代の街道は、敵の侵入を防ぐため 狭くて曲がりくねっているのが常識。 しかし信長は、広くて真っ直ぐな歩きやすい道を造り、 バイパスまで通してしまった? 交通インフラの整備に込められた、信長の緻密なマネー戦略とは? 伝来した当時は欠点だらけで実戦では使えなかった鉄砲。 それを信長が最強の武器に変えた?驚きのその方法とは? 武士の恩賞といえば土地なのに、信長が与えたのはなんと茶器! しかも家臣は大喜び! そこには信長の巧妙な家臣統制術があった? 天主の高さは30m以上…最上階は全面金箔張りと、 空前絶後のスケールで築かれた安土城。 なぜ信長は多額の資金と人員を投じて、天下無双の城を築いたのか? 安土城に秘められた、信長の壮大すぎる野望とは?
幕末動乱の京都。 町は、治安の悪化の一途を辿っていた。 江戸幕府と、長州藩をはじめとする尊王攘夷派が対立。 尊王の志士たちの中には、幕府側の要人や家族を斬殺するなど、 過激な行動に出る者が多くいた。 そこで、京都市中の警備を任されたのが、『新選組』。 そんな新選組の名を、天下に轟かせた事件が『池田屋事件』である。 今回は、事件4日前から事件当日まで、時間を追っていきながら、 『池田屋事件』の真相に迫っていく。 発端は、尊王攘夷派のとんでもない計画が発覚したことだった? 彼らの標的は、何と天皇だった!? 幕府の援軍が来ない?沖田総司が突然の離脱? 事件当日、見舞われた数々のピンチ! 新選組の窮地を救ったメンバーとは!? あの桂小五郎も、現場となった旅籠『池田屋』に来ていた? 桂は、如何にして新選組の襲撃を逃れたのか!? そして、この事件後歩むことになる 新選組の非情な運命とは?
永禄3年(1560)5月19日。 この日、戦国最大といわれる逆転劇…大番狂わせが起こった。 桶狭間の戦いである。 まだ尾張一国すら統一できていない若き日の織田信長と、 駿河・遠江・三河の東海三国を支配下に置く今川義元が激突。 兵力の差は織田軍3000に対して今川軍2万5000と 実に8倍以上もあったが、戦いを制し天下取りの足掛かりとしたのは ご存知の通り信長… なぜ信長は遥か格上の義元に勝利することができたのか? それは長年“奇跡”だと考えられてきたが、 近年の調査・研究によって全く違う事実が明らかになってきた。 “尾張の大うつけ”と“海道一の弓取り” 対照的な呼ばれ方をする2人だが、実際の戦力は拮抗していた? その意外な力関係とは? 信長は、戦場を迂回死して義元の背後から奇襲をかけたのではない? 近年の研究で明らかになりつつある、信長の巧妙な戦略とは? 桶狭間の戦いは3年以上前から始まっていた? 信長の勝因は、入念な下工作と緻密な心理戦にあった?
平安時代中期。 関東と瀬戸内という日本の東西で、同時に大規模な反乱が起こった。 平将門の乱と藤原純友の乱である。 天皇の血を引く将門がなぜ朝廷から反逆者とされたのか? そして、名門貴族出身の純友が反乱を起こした意外な理由とは? さらにこの2つの乱にまつわるこんな伝説が… 「比叡山の山頂で平将門と藤原純友が共謀して反乱を企てた」 果たして、本当に将門と純友は共謀して反乱を起こしたのか? その真相に迫る!
5度の渡航失敗を乗り越え日本に正しい仏教の教えを伝えた 古代中国・唐の僧侶、鑑真。 鑑真、決死の来日の謎? 亡命説に、スパイ説など浮かび上がる様々な説・・・ なぜ鑑真は命がけで海を渡り、日本にやって来たのか? 日本にたどり着くまでに要した月日、10年以上! 5度に及ぶ失敗には、弟子のまさかの裏切りが! その苦難の全貌とは!? ようやく訪れた日本で思いがけない事態が! 鑑真に対し、僧侶たちが猛反発? 一体、なぜ!? 鑑真の波乱万丈の人生に迫る!
8月15日は、終戦記念日。軍部を中心に、国全体がアメリカをはじめとする連合国との戦いに突き進んでいった、太平洋戦争。しかし軍部の中には、日本の敗戦を予測し、日米開戦を避けようと尽力した人物がいた・・・海軍・連合艦隊司令長官、山本五十六。直前まで、“避戦”を主張していた山本は、同時に、太平洋戦争の口火を切った『真珠湾攻撃』の作戦立案を指揮しなければならなかった。その葛藤と苦悩の中で、山本は、何を想い、何を考え、どんな決断を下したのか・・・戦争へと向かう大きなきっかけとなった『日独伊三国同盟』。三国同盟締結をめぐり、陸軍と海軍が対立し、やがて国中が、大きな論争に巻き込まれていく・・・なぜ山本は、三国同盟締結に猛反対したのか?その裏にあった、若き日の経験とは!?山本が、常識破りの作戦で挑んだ、『真珠湾攻撃』。「トラ・トラ・トラ、奇襲成功なり」・・・アメリカ軍に、大きな打撃を与え、勝利に沸いた日本。本当に、真珠湾攻撃は成功したのか?攻撃の裏で起きていた、数々の誤算とは!?果して、『真珠湾攻撃』に込めた、山本の狙いとは?そして、彼が望んでいた日米終戦の形とは?お楽しみに!
長引く不況に数多の災害、そして新型コロナウイルスの流行と、 明るい話題の少ない昨今の日本。 こんな時、真のリーダーがいてくれたら… そう、この人のような… 江戸時代中期、破綻寸前だった米沢藩の復興に生涯を捧げ、 領民たちの心に希望の火を灯した稀代の名君、 米沢藩9代藩主・上杉鷹山。 鷹山は、どんなに財政が厳しくても増税もリストラも行わず、 領民の生活を守ることを第一に考えた改革で米沢藩を立ち直らせた! その驚きの政治手腕とは? 改革を妨害しようとする保守派の重心たちが鷹山を軟禁! その時、鷹山がとった意外な行動とは? 改革の最中に突然の隠居! しかし、その裏には藩を立て直すための秘策があった? “なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり” 広く知られるこの言葉は鷹山が残したものだが、 鷹山はまさにこの言葉通り、 “なせば成る!”の精神で様々な困難を乗り越えていった。 今こそ知りたい、稀代の名君・上杉鷹山の誇り高き生涯に迫る!
今年、2020年、相次いで発見された秀吉にまつわる歴史的資料や遺構。 こうした新発見により 晩年の秀吉の新たな人物像が明らかになってた。 今回は晩年の7年間に焦点にあてて、 秀吉にまつわる謎を解き明かす。 天下をとった秀吉の次なる野望は、海外進出だった!? 無謀と言われてきた2度の朝鮮出兵の真の狙いとは? 後継者、秀頼のために築いた秀吉最後の城。 世紀の発見で見えて来た「幻の城」の全貌と秀吉の政治構想とは!? 朝鮮出兵の最中の突然の死! 果たして秀吉の死因とは何だったのか?
昭和39年(1964)、10月10日。 アジアで初めて開催された東京オリンピック。 7千人を超える選手団の入場行進を彩った「オリンピック・マーチ」。 その作曲者は、生涯に5千とも言われる膨大な曲を作り出した 日本を代表する作曲家、古関裕而。 独学ながらも日本人で初めて国際音楽コンクール入選を果たし、 その褒賞としてイギリスへの音楽留学も決まっていた古関。 しかし、何故か留学しなかった。 その理由は、一通のファンレターが関係していた? 破格の給料で専属契約を結ぶもヒット曲が書けない! 契約解除に迫られる古関を救ってくれた身近な人物とは!? 古関の名を一躍広めたのは、皮肉にも戦争だった。 戦時歌謡の名曲と謳われる「露営の歌」誕生の秘密とは? 「オリンピック・マーチ」には日本的な要素を… 東京オリンピック委員会から難しい条件を出され、苦悩する古関。 それを解決したのは、あの曲だった? 数々の名曲を作った天才作曲家、古関裕而の生涯に迫る!
江戸幕府のもと、およそ260年に亘って続いた泰平の世、江戸時代。 幕府のお膝元である江戸の町は、新興都市として急速に発展し、 やがて100万人以上の人々が暮らす、大都市へと変貌を遂げた。 そして江戸の町の人口の半分を占めていたのが、町人。 つまり江戸は、庶民の町でもあったということ。 では彼らは、どのような暮らしをしていたのか・・・ 今回は、「衣」「食」「住」、3つのテーマに分け、 江戸庶民の暮らしぶりに迫る。 何と!江戸っ子たちは、ふんどしをレンタルしていた! 裕福でなかった庶民たちは、如何にしてお洒落をしていたのか? 貧しくとも、豊かな生活を送る方法とは!? 現代の和食の礎を築いた、江戸の食。 しかし、マグロやサンマは全く人気がなかった? さらに、好き好んで、あれまで食べた? 究極の珍味と言われる、驚きの「あれ」とは!? 6畳ワンルーム! 超狭小の長屋暮らしで… 庶民たちが知恵を絞った様々な工夫! ミニマムな生き方が、人生を豊かにした!?
二宮金次郎。薪を背負い歩きながら本を読む彼の姿は、 誰もが幼少の記憶のなかに見つけ出すことができるだろう。 しかしその知名度と裏腹に、 金次郎が何を成し遂げたのかはあまり知られてはいない。 家を失い家族は離散、苦難に見舞われ続けた少年時代。 二宮家再興のため奮闘する金次郎が編み出した驚きの勉強法とは? 努力と手腕によって24歳で大地主になった金次郎。 その働きによって小田原藩主に見いだされ拝命した農村復興の最中、 突然姿を消した彼はどこに身を置いていたのか? 勤勉さだけでなく発想力も群を抜いていた金次郎は、 ある作物の味からあの「天保の大飢饉」さえも予見し、 多くの民衆を救っていた? 生涯で600を超える村を立て直した、 二宮金次郎の知られざる一生を追う!
徳川家康が江戸に幕府を置く130年ほど前に、 江戸の地に目をつけその礎を築いた武将として知られる太田道灌。 一体、太田道灌とはどんな武将だったのか? 今回はその実像に迫る。 室町時代から戦国時代への転換期を迎えていた関東。 相模を拠点とする扇谷上杉家の家宰をつとめたのが太田道灌。 江戸氏の領地だった場所に城を築いたのは道灌だったといわれているが、本当に江戸城を築いたのは道灌だったのか? 上杉氏勢力を二分する大騒乱となった長尾景春の乱で関東は大混乱。 鎮圧に乗り出した道灌はいかにしてその反乱を収めたのか? 上杉氏の危機を救った英雄・道灌の最期は…なんと味方に暗殺? 一体なぜ道灌は殺されたのか? その真相にも迫る!
身長180センチ。イギリス仕込みの紳士道と流暢な英語で GHQとも堂々渡りあい「従順ならざる唯一の日本人」と呼ばれた男、 白洲次郎。 戦前は近衞文麿のブレーン、戦後は吉田茂の側近となって 政治の中枢にいた、まさに昭和史の鍵を握る人物。 戦後、日本を占領したGHQが日本に「憲法改正」を要求。 GHQとの交渉に何度も赴く次郎が、 最終的には「憲法改正」で泣いた? その涙に込められた次郎の想いとは? 戦争により焦土と化した日本は経済どころではなかった。 そんな中、瀕死の日本経済を立て直すために 次郎が大胆な改革を行った! 「メイド・イン・ジャパン」で高度経済成長を遂げたのは 実は次郎のお陰だった? 日本を占領から独立させるため、総理の吉田茂と共に臨んだ サンフランシスコ講和会議! 国際社会への復帰を果たすために次郎が作らせた “吉田のトイレットペーパー”とは?
初代内閣総理大臣・伊藤博文は、生前、こう語っていた。 「私の一生で一番ありがたく思うのは言うまでもなく天皇陛下だが、 その次は【おかか】である。 【おかか】とは、伊藤の妻・梅子のこと。 梅子は、明治という新しい時代をリードする伊藤を陰に日向に支え、 日本の近代化に大きく貢献した、伊藤の自慢の妻だった。 しかしその生涯はまさに波乱万丈で… 幕末の動乱期に運命の出会いを果たした梅子と伊藤。 恋はゴミ捨て場から始まった?ドラマのような二人の馴れ初めとは? 貧しい町民の娘として生まれ、読み書きすらまともに出来なかった梅子が、国家の顔というべきファーストレディに! その陰に隠された驚くべき梅子の努力と献身とは? 伊藤は天皇も呆れるほどの女好き! 自宅にまで浮気相手を連れてきたが、 梅子は怒るどころか浮気相手を笑顔でもてなした? その意外な理由とは? 凶弾に倒れ、69年の生涯を閉じた伊藤。 突然の別れにも梅子は動揺を見せず、涙すらこぼさなかった… ファーストレディとしての梅子の覚悟とは?
430年ほど前の戦国時代。 五代、100年にわたり小田原の地を治めていたのが、 相模国の戦国大名・北条氏。 北条氏は、周辺諸国にまで勢力を拡大し 『関東の覇者』として君臨していた。 ところが、その北条氏が、突如歴史の表舞台から姿を消すことに・・・ そこに大きく関係したのが豊臣秀吉だった。 天下統一を目前にしていた秀吉は、 北条氏が支配する関東を征服しようと20万を超える 未曾有の大軍勢を率いて、小田原へと乗り込む。 そんな豊臣軍に怯むことなく立ち向かっていったのが、 北条氏政・氏直親子だった。 果して2人は、如何にして豊臣軍に挑んでいったのか? あの武田信玄や上杉謙信も退けた、北条氏の鉄壁の城、小田原城。 氏政・氏直親子の秘策は、『町を挙げて戦う』ことだった!? 小田原城下に、一夜で城まで造った? 莫大なお金を注ぎ込んだ、秀吉の前代未聞の大作戦とは!? 双方攻め手を欠く中、戦局を大きく動かしたのは、 あの独眼竜・政宗だった!? 天下統一を前に、沸々と燃えたぎる秀吉の野望。 関東の覇者として君臨してきた北条氏の意地と誇り。 そんな両者が、3か月にわたり一進一退の攻防を繰り広げた、 『小田原攻め』を徹底検証する!
現存する仏像のほとんどが、国宝や重要文化財に指定される、 日本仏教美術史上最も有名な人物である。 運慶の作品を前にすると、躍動感に溢れ、 まるで生きているかのように、 こちらに迫ってくるような迫力に圧倒されるという。 そんな運慶の仏像に深く魅了されたのが、 鎌倉幕府初代将軍・源頼朝だった。 やがて二人は、東大寺再建というビックプロジェクトに挑んでいくことになるのだが… 仏師と武士。 住む世界が違う二人は、如何にして出会ったのか? そして意外な共通点とは? 二人の足跡を追っているうちに、行きついた“幻の寺”の正体とは? そして運慶の最高傑作とも言われる東大寺『金剛力士立像』は 如何にして造られたのか?その制作の驚きの裏側に迫る! 平安から鎌倉へと、時代が大きく変貌する中で、 仏師運慶は、どのように生き、傑作を生み出していったのか?
太平洋戦争に敗れ、焦土となった日本。 誰もが意気消沈するなか、「戦争に負けて外交で勝った歴史がある」と言ってはばからなかった型破りな総理大臣がいた。 和製チャーチル、ワンマン宰相などと呼ばれた、吉田茂である。 吉田はこの言葉通り、 連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーにも臆することなく対峙し、 占領下にあった日本を早期独立に導いた。 その驚くべき手腕とリーダーシップとは? 白馬に乗って外務省に出勤!? 問題児だった吉田が総理大臣に就任した意外な理由とは? マッカーサーも思わず大笑い!? 戦後日本を飢えから救ったのは吉田の軽妙なジョークだった? 日本の再軍備を断固拒否! そこにあった吉田の知られざる思いとは!?
名は、間宮林蔵。 そして彼が挑んだ地が、『樺太』。現在のサハリンである。 当時樺太は、『世界地図の最後の空白地帯』と呼ばれ、 世界の名だたる探検家が、調査に挑むも成し遂げられずにいた。 そのため、樺太は「ユーラシア大陸と陸続きの半島」だと考える者も多くいた。 そんな中、世界で初めて『樺太が、島である』ことを発見したのが、間宮林蔵だったのである。 さらに彼が発見した海峡は、やがて『間宮海峡』と名付けられることに。 しかしその偉業の裏には、様々な困難があった。 不安定な天候と高波、そして冬場の凍てつくような寒さ、 そして先住民たちとの軋轢など。 今回は、鎖国の時代に、 果敢にも『樺太探検』に挑んでいった男・間宮林蔵、 世紀の大発見の軌跡を追う! なぜ農民出身の林蔵が、「樺太探検」という大役を 幕府から任されることなったのか?その意外な理由とは? 船の帆は、鮭の皮でできている?赤ん坊は立って寝る? 林蔵が衝撃を受けた、樺太先住民の驚きの暮らしとは? そしてあのシーボルトを日本から追放したのは、林蔵? しかし皮肉にも、林蔵の偉業を世界に紹介したのは、そのシーボルトだった? さらに現役の探検家にもインタビューし、 当時如何に林蔵の樺太探検が過酷であったかを検証していく!
群雄割拠、武将たちが天下取りへ鎬を削る戦国の世に、最強の名を欲しいままにしたひとりの武将がいました。越後の龍・上杉謙信です。 戦いの神・毘沙門天の化身と恐れられた謙信!その強さの秘密とは!? 戦国武将たちが頼りにする謙信は本当に天下取りを狙っていなかったのか! 生涯独身を貫いた謙信。男色とストイックな性格との関係とは?上杉謙信の「なぜ」に迫ります!
時代劇のヒーローでおなじみ、大岡越前と遠山金四郎。2人は本当に名奉行だったのか? 数々の名裁き「大岡政談」は作り話が多かった?桜吹雪の刺青で正義の味方、金さんが実は庶民を苦しめる悪い奉行?越前は職場でいじめられ、金さんは上司の言いなり…それでもヒーローと語り継がれていった2人の実像に迫ります!
群雄が割拠する戦国の世において「城攻めの達人」と呼ばれたのが、 戦国三英傑のひとりである豊臣秀吉。 秀吉は周到な策略によって多くの城を攻め落としているが、 中でも人々を驚愕させたのが、備中国・高松城を攻略した際の奇策… 水攻めである。 なんと秀吉は備中高松城を堤防で囲み、 その中に川の水を流し込んで城を水没させてしまった。 そしてこの備中高松城の戦いが、 織田信長と豊臣秀吉という二人の天下人の運命を 大きく変えてしまうことになるのだが、一体どんな戦いだったのか? 築堤工事の際、土嚢をひとつ運べば一日分の労賃がもらえた? 水攻めを成功させるために秀吉が行った驚きの手法とは? 水攻めの真っ最中に本能寺の変が勃発! その時、秀吉と黒田官兵衛がとった意外な行動とは? 5千人の家臣を救うために壮絶に散った、高松城主の清水宗治! 秀吉を感服させ、武士の鑑と称えられた、その見事な最期とは?
世界遺産にも登録されている、日光東照宮。 主祭神として祀られているのが、徳川家康である。 では、なぜ日光に祀られているのか?そして東照宮の名前の由来とは? 実は、それらは、家康が晩年抱いていた、知られざる壮大な計画と関係があった・・・ 関ヶ原の戦いに勝利し、天下の座を射止めたのが、59歳の時。 そこから75歳で亡くなるまで、一体家康は、何を想い、何を成し遂げようとしていたのか? 江戸幕府将軍となったわずか2年後、息子の秀忠に、その座を譲り、 家康自身は、駿府城で隠居!?一体なぜ?そこには、家康のある狙いが・・・ 鯛の揚げ物を食べて、危篤? 亡くなる前日に、罪人を使って、刀を試し斬り? 天下人・家康の壮絶な最後とは!? 側近たちに残した、不可解な遺言。 そこから浮かび上がった久能山、富士山、日光を結ぶルート・・・ それが意味するものとは!? 260年以上にわたって、江戸幕府が続いたのは、実は、家康のおかげだった?
今から1400年ほど前の古代日本。 造船技術も航海技術もまだまだ未熟だった中、 海を渡った遣隋使と遣唐使。 彼らはなぜ命をかけてまで大陸を目指したのか? 記念すべき第1回遣隋使について書かれているのは 中国の歴史書だけ? 日本が記録に残さなかったのはある屈辱を受けたからだった! 遭難者続出の命がけの船旅。海難事故が多発した驚きの理由とは? 遣唐使が突如廃止に! 派遣中止を願い出たのは、学問の神様で有名な あの菅原道真だった! 道真はなぜ中止を訴えたのか、その真相に迫る。
およそ260年に亘る泰平の世を築いた江戸幕府。 そのお膝元となる江戸の町は、江戸時代中期になると 人口100万人を超えた大都市となった。 都市化が進めば、貧困や飢餓、環境問題など、 様々な問題が出てくが… 実は、江戸時代の庶民の暮らしの中には、 世界中の人々が安心して快適に暮らせる未来をつくるために定めた ”持続可能な開発目標”、SDGsに繋がるヒントがあった。 世界でも類を見ないほどゴミが少なかった江戸の町。 紙くずや灰、髪の毛までリサイクル!? 江戸っ子たちが作り上げた驚くべき循環型社会とは? 江戸の町を襲った大飢饉。 「無宿人」が溢れ、治安が悪化した町のピンチを救ったのは、あの人物だった! 町に平和をもたらした再犯防止の秘策とは? 江戸の識字率の高さに外国人もびっくり! 学力向上のカギは”寺子屋“にあった! その徹底した教育法とは?
室町時代後期。 11年もの長きにわたり続いた内乱「応仁の乱」によって、 室町幕府の権威も、朝廷の権威も失墜。 そんな荒廃した京の都に天下布武を掲げた男が戦国の革命児と言われる織田信長。 そして、この破竹の勢いを見せる信長と深く結びつくことで、 朝廷の復権を託したのが第106代 正親町天皇だった。 正親町天皇の即位の礼が執り行われたのは、 天皇になって3年も経ってからだった? 一体なぜ!? 信長が、東大寺に圧力をかけ、 正親町天皇に無断で正倉院を開けさせた? そして、手にした「天下第一の名香・蘭奢待(らんじゃたい)」。 本当に信長は強引に「蘭奢待」を切りとったのか? 信長が、正親町天皇に譲位を進言? 邪魔になった天皇を追い払おうとした? その真相は、天皇が信長に宛てた直筆の書状の中にあった!? 戦国のミカド、正親町天皇とはどんな天皇だったのか・・・ 信長との関係と共に迫る!
建久4年、1193年5月、 前年に征夷大将軍に任ぜられていた源頼朝が富士山麓で大規模な狩りを開催。 武家の頂点に立った頼朝が狩りの総指揮を執ることによって、 その権勢を内外に誇示しようとしたのだが… 晴れの舞台を台無しにする前代未聞の大事件が起こってしまう。 伊豆国出身の武士… 22歳の兄・曽我十郎祐成と20歳の弟・曽我五郎時宗の兄弟が、 頼朝の側近である工藤祐経の寝込みを襲い、実父の敵(かたき)として斬殺。 さらに無関係の御家人たちまで次々と斬り倒したのである。 なぜ曽我兄弟はこのような蛮行に及んだのか? 物心つく前から敵討ちという宿命を背負わされていた曽我兄弟。 涙なしでは語れないその悲しき人生とは? 曽我兄弟の本当の狙いは、将軍・源頼朝の暗殺だった!? 兄弟と頼朝の意外な関係とは? 敵討ちの顛末を描いた「曽我物語」は真実を伝えていなかった!? その原因は頼朝にあり! 歴史の闇に葬り去られた敵討ち事件の真相とは!?
あの空海と並び称される名僧。 強烈なカリスマ性と数々の逸話を残した空海とは対照的に、 最澄の生き方は、愚直なまでに、自分の信じた道を歩み続ける一途なものだった。 彼が残した 「己を忘れ、他を利するは、慈悲の極みなり」という言葉がある。 人のために尽くすことこそが、仏の慈悲の究極の姿という意味。 仏教とは何か?僧侶とは何か?を問い続けた最澄は、 やがて新しい仏教の形を提示していくことになるのだが… その人生は、波乱に満ちたものだった。 二十歳で比叡山に一人籠り、 32歳の若さで、天皇お抱えの僧侶に大抜擢!? その裏で起きた、最澄の運命を変えた出来事とは!? 遣唐使として、同時期に、古代中国・唐へ渡った最澄と空海。 8歳下の空海に、最澄が弟子入りするも、やがて決別! 二人の間に何があったのか!? 死の直前、最澄が挑んだ常識破りの仏教改革! 最澄が思い描いていた理想の社会と仏教のあるべき姿とは?
雅で華やかなりし平安時代。 しかし、そんなイメージとは程遠く・・・ 京の都には江戸時代の大奥さながらの嫉妬渦巻く「女の園」があった。 天皇や、宮仕えの女房たちが暮らした宮中の奥御殿「後宮」である。 平安時代、成人したら男性と 自由に会うことができなかった女子たち。 そんな後宮は女子たちにとって憧れの「出会いの場」だった!? その真相とは一体? あの紫式部が「源氏物語」のせいでイジメに!? ヒソヒソ話に無視!嫉妬からくる陰湿なイジメの実態とは!? 恋愛の最強ツールは「手紙」。 しかし、男性からの恋文に返事をしなかった? 平安一のモテ女から学ぶ恋の駆け引きとは?
今から400年以上前、群雄割拠する戦国時代。 武力、知力を駆使して勝ち抜き、天下をその手に収めた三英傑。 織田信長、豊臣秀吉、そして 徳川家康。 三人の天下取りに家紋は欠かせなかった! 7つもあった織田家の家紋。 信長はそれらを使い分け天下を取った!? それぞれに どんな意図が込められているのか? 家紋でわかる秀吉のスピード出世の足跡! 天皇からもらった家紋を勝手にアレンジ? 驚きの行動の裏にある家紋戦略とは? 徳川本来の家紋は「三つ葉葵」ではなかった!? 徳川家の象徴ともいえる家紋のルーツとは? 三者三様の驚きの家紋戦略とは!?
安土桃山時代、豊臣秀吉が建てた「聚楽第」を舞台に、 こんな逸話が伝えられている。 謁見の間に威風堂々と入ってきた男に秀吉はじめ、 居並ぶ大名たちは息を呑む。 虎皮の肩衣に髑髏の紋という奇妙ないでたち。 秀吉に深々と頭を下げるも顔はそっぽを向き、 天下人を前にしているとは思えぬふてぶてしさ。 この男こそ、「天下一の傾奇者」と呼ばれた前田慶次。 小説や漫画での活躍があまりに痛快なため、架空の人物とも 思われがちな慶次ですが、しっかりと実在した武将。 謎に包まれた出自から、織田信長に翻弄された前半生。 叔父、前田利家との確執や戦場での鬼神のごとき活躍。 そして「傾奇者」としての数々の逸話など 残された数少ない資料から、その人物像を紐解く。 慶次が晩年を過ごした米沢藩。 なぜ故郷から遠く離れたこの地を終の棲家としたのか。 そこには直江兼続との友情、唯一の主と見定めた上杉景勝の存在があった。 現在の山形県米沢市に残る慶次の鎧や直筆の和歌など 貴重な遺品から、晩年の安息の日々に思いを馳せてみれば… そして、昨年の大発見も!? 「傾奇者◦慶次」その真実に迫る。
立身出世といえばやはりこの人、 貧しい農民から天下人に駆け上がったといわれる奇跡の人・豊臣秀吉。 しかし、この奇跡は秀吉ひとりで起こしたものではない。 織田信長に仕えていた足軽時代から共に戦場を駆け巡り、 多くの武功を挙げながらも決して前に出過ぎることはなく、 秀吉の影に徹した実弟の存在があってこそのものだった。 弟の名は、豊臣秀長。 戦国最強のナンバー2、影の太閤などと呼ばれる名補佐役で、 秀吉は名軍師として名高い竹中半兵衛や黒田官兵衛よりも この秀長を頼りにしていたという。 今回は、秀吉を天下人に導いた 豊臣秀長の驚きのサポート人生を徹底検証! 農家の跡取りだった秀長が23歳で突然、秀吉に仕官! 本当は武士になりたくなかった? 織田信長の後継者の座をめぐり、秀吉と柴田勝家が賤ヶ岳で激突! この時、秀長は味方の武将を見殺しにしたのだが、 これには秀吉を天下人にするための深い理由があった? 秀吉よりも先に亡くなった秀長…すると秀吉が大暴走! もし秀長が長生きしていれば徳川家康に天下を乗っ取られることもなく、 豊臣幕府が成立していた!?
美人画の世界に新風を吹き込んだ 喜多川歌麿。 隠れた傑作と呼ばれる 超リアルな虫や草花。 その画力にみる、人並み外れた才能とは? 歌麿の美人画が、寛政の改革の標的に!? 江戸幕府の規制に果敢に挑んでいった、歌麿のとんでもない秘策とは? そしてもう1人の天才にして 役者絵の世界に革命をもたらしたのが、東洲斎写楽。 歌舞伎を盛り上げるべく描かれた役者絵のはずなのに、 なぜか役者たち本人には、不評だった?一体なぜ? 写楽の正体は?あの葛飾北斎だった?えっ、オランダ人だった? 長年謎に包まれてきた、その素性・・・ 果して、写楽とは何者だったのか? 浮世絵黄金期に登場した、2人の天才絵師。 彼らが、新たに生み出した美の世界の魅力に迫りながら、 その裏に隠された多くの謎に迫る!
天正2年(1574年)1月1日。 織田信長による新年を祝う宴の席で披露された金箔を貼られた3つのドクロ。一つは、浅井長政。もう一つはその父、浅井久政。そして3つ目が、朝倉義景のもの。 信長の残虐性を表した逸話とも云われているが、自分を最も苦しめた 相手への敬意を示した行為とも云われている。 そう、朝倉義景こそ織田信長を何度も追い詰めついには「もう天下を狙わない」とまで言わしめた武将だった。 後の室町幕府15代将軍・足利義昭を領内に匿いながらも義昭を立てて上洛することなく、みすみす天下取りの機会を逃した暗君とも云われている朝倉義景。 なぜ義景は上洛しなかったのか? そのとき義景を襲った悲劇とは? 「志賀の陣」で信長に頭を下げさせ 「もう天下は狙わない」とまで言わせた義景。 なぜこれほど追い詰めることができたのか? 「信長包囲網」で、なぜか義景は包囲網の一角を崩して撤退! なぜ、あと一歩で宿敵を倒せるというときに? その驚きの理由とは? 「北の京」とまで呼ばれた美しい城下町を作り、文武に優れ、 天下を狙える十分な兵を持ちながらも、なぜ彼は敗れたのか? 朝倉義景の真実に迫る。
今からおよそ150年前の慶応3年、1867年、10月14日。 江戸幕府15代将軍・徳川慶喜によって、政権が朝廷に返還された。 大政奉還である。 これにより、260年にわたり続いた江戸幕府が終わりを迎えた。 その後、新政府と旧政府が激突した「鳥羽・伏見の戦い」で 朝敵となり、江戸に逃げ帰った慶喜は水戸に蟄居。 その後、静岡に移り、隠棲生活を始める。 “賊軍”というレッテルを張られ、将軍を辞してからは、政治的発言や、 人と会うこともしようとしなかった慶喜だったが、 唯一、心を開いた人物がいた。 慶喜が一橋家の当主だった時から仕えてきた渋沢栄一である。 謹慎となった慶喜に渋沢栄一が涙! 変わり果てたその暮らしぶりとは!? 実に25年かけ渋沢が企画編纂した「慶喜公伝記」。 当初は拒み続けた慶喜が編纂を許可したのには理由があった! そこで語られた知られざる歴史の真相とは? 晩年、慶喜が数々の趣味に没頭! しかし、その裏には意外な理由があった?
飛鳥時代に日本という新しい国づくりに生涯を捧げた兄弟がいた。 兄の中大兄皇子と弟の大海人皇子、 後の第38代 天智天皇と、第40代 天武天皇である。 しかし、兄弟の人生は共に、波乱に満ちたものだった。 絶世の美女・額田王を巡って 天智天皇と弟の大海人皇子が恋のバトル? 三角関係の真相とは!? 兄から皇位を譲ると言われるも 大海人皇子はそれを断り、出家? その裏に隠された兄弟の巧みな駆け引きとは!? ひっそり暮らす大海人皇子が、朝廷から命を狙われ、挙兵? 古代最大の内乱「壬申の乱」が勃発! 一体なぜ!? 日本という国の礎はいかにしてつくられたのか? 天智天皇と天武天皇が目指した新たな国の形とは!?
江戸幕府2代将軍、徳川秀忠。 偉大なる父・家康のようなカリスマ性はなく、 目立った武功をあげることも出来ず、 隠居したはずの家康に幕府の実権を握られていたため、 長きにわたり“ダメな二代目”という烙印を押され続けてきた。 しかし、本当に秀忠はダメな二代目だったのか? 組織において初代の功績を引き継ぐ二代目は非常に重要… 秀忠の知られざる功績なくして、江戸幕府は15代も続かなかったのである! 天下分け目の大勝負・関ヶ原の戦いの遅刻して家康から大目玉! しかも三男だった秀忠が2代将軍になれた意外な理由とは? 大御所となった家康の“操り人形”だったといわれる秀忠だが、 幕府の安寧のためにあえて道化役を演じていた!? 江戸と駿府、二元政治の驚きの真相とは? 家康の死後、大人しかった秀忠が豹変! 苛烈な大名統制を断行して諸大名を震え上がらせたが、 これには深―いワケが… 260年以上続く江戸幕府の土台を築いたのは、実は秀忠だった!?
今からおよそ100年前の大正時代に世界的大流行、パンデミックを引き起こしたスペイン風邪。風邪という名が付いているが、その病原体は、新型インフルエンザだった。 その猛威は、凄まじく、世界中で4000万人、日本国内でも45万人もの命を奪ったと言われている。 大正時代の人々は、ウイルスの脅威に、如何にして対応したのか? アメリカで発生したスペイン風邪が、わずか3週間で世界中に蔓延! その意外な運び屋とは? 皇太子に、総理大臣まで感染! 感染経路を調べていくと、現代の新型コロナウイルス感染と同じだった? 2020年に発見された、当時12歳の女学生が書き残した日記。 友人が感染し、自らも発病、そして家族が犠牲に… 少女が見たウイルスの脅威とは? 家庭内クラスター発生で、歌人の与謝野晶子が政府に激怒! 後手後手に回った政府の対応策…打った手は、予防ポスターだけだった? そしてスペイン風邪は、果してどうやって終息していったのか?
全国各地の名産品や工芸品が集まって賑わう「物産展」 この心躍る催しの始まりは江戸時代。 その発案者こそ、「江戸の天才」と呼ばれた、平賀源内! 源内と言えば、薬草の研究をする「本草学者」であり、 エレキテルで有名な「発明家」であり数々のヒット作を連発した「小説家」。 「土用丑の日」にウナギを食べることを薦めたコピーライター。 多彩な顔を持つ、この男は 日本で初めて「物産展」を企画・開催した人物でもあった。 当時は「薬品会(やくひんえ)」と呼ばれたこの催し。 日本各地に埋もれているであろう薬の材料、その実物を集め展示し、 意見を交換する場として呼びかけたもの。 この企画は大当たり!本草学の発展に大いに貢献することとなった。 源内は、「薬品会」開催のため様々なアイデアを駆使する。 耳目を集める「チラシ作戦」! 出品数を激増させた「着払い作戦」! 現代の私たちにも通じる戦略とは? その驚くべき発想に迫る!
西暦645年、飛鳥時代。 日本では歴史を変える大きな事件があった。「乙巳の変」である。 ヤマト政権内で天皇も凌ぐ権勢を誇っていた蘇我入鹿が暗殺されたのだ。この政変の重要なキーマンとなったのが中臣鎌足。 鎌足が「乙巳の変」を計画? そこには蘇我氏への強い怒りと政治家として野心があった!? 母親の股から藤の木が生え・・・キツネが出世を予言? 摩訶不思議な鎌足誕生伝説の真相とは!? 死の直前、鎌足に「藤原」の氏名が与えられた? その驚きの由来にも迫る!
今からおよそ150年前の明治3年、1870年、10月。 日本近代化の象徴とも言える工場が操業を開始した。 世界遺産「富岡製糸場」。 およそ5万5千平方メートルという広大な敷地の中に建てられた 当時としては世界最大規模の器械製糸工場。 その一大国家プロジェクトの建設を指揮し、 初代場長となったのが尾高惇忠。 農家の子として生まれた尾高惇忠が何故、 国家プロジェクトを任されたのか?それは蚕のおかげ!? ようやく完成した富岡製糸場。 しかし、働く工女たちが全く集まらない? その原因は、赤ワイン!? 大正時代の『女工哀史』のイメージでブラック企業と思いきや・・・ 昼休みは4時間? 福利厚生も充実? 富岡製糸場は超ホワイト企業だった!? 製糸場建設という国家プロジェクトを任された惇忠の 類稀なる能力と苦悩の日々に迫る!
戦国の世を制した二人の天下人、豊臣秀吉と徳川家康。 家臣として仕えるならば、どちらがいいのだろうか? 答えを知っているのはこの男…二人に仕えた戦国武将・石川数正。 数正は幼少の頃から家康に仕え、側近中の側近として忠義の限りを尽くしてきたが、秀吉と家康が対峙した“小牧・長久手の戦い”の翌年、 突然、徳川家を去り、秀吉の元への走ったのである。 徳川家の機密情報を知る数正が秀吉に寝返ったことで家康は大慌て。 それまでの軍制をすべて変えるなど、対応に追われた。 なぜ数正は家康から秀吉に寝返ったのか? その謎は今も解明されず、本能寺の変と並ぶ戦国屈指のミステリーといわれている。 家康のねちっこい性格に嫌気が差したのか? 秀吉の巧みなヘッドハンティングに心が動いたのか? はたまた家康のスパイとして豊臣家に潜入していたのか? 戦国の謎に迫る!
眩いばかりに輝く黄金の印。 「漢委奴國王印(かんのわのなのこくおういん)」、通称「金印」。 最も小さな国宝である。 今から2000年ほど前の弥生時代後期、九州北部にあった 小国「奴国」が中国の王朝・漢と交流していたことを物語る 歴史的価値の高い資料だが、金印をめぐる真贋論争が 物議を醸し出してきた! 金印は本物なのか?偽物なのか? 論争の争点、文字の特徴やツマミの形、その謎とは? 金印が福岡藩に鋳つぶされそうになっていた? お宝喪失の危機を救った一人の儒学者…しかし、その裏にはある思惑が!? 金印は奴国の物ではなかった?その謎をとく鍵は「にんべん」。 本当の持ち主はどこだったのか?
今回は、新選組として、最後まで戦い抜いた『ラスト・サムライ土方歳三』。 「近藤に誤謬なきは、歳三ありたればなり」と言われるほど、 局長の近藤勇を支え、実質的に、新撰組を取り仕切っていたのが、土方だった。 それ故、土方の人生は、波乱万丈そのもの。 死をも恐れぬ激闘に、仲間の裏切り、盟友との別れに、流転の日々・・・ 江戸から明治へと時代が大きく変りゆく中で、儚く散っていた男の生き様に迫る。 農家に生まれながら、武士になることを志した土方。 その裏にあった運命的な出会いと、生まれ持った、ある使命とは? 新選組隊士たちを、厳しく律し、京都の警察組織として、 数々の功績を上げていく中、土方が抱いた新たな野望・・・ 土方が目指した、新選組の進化形とは? 新政府軍に徹底抗戦を仕掛けた、新選組。 その最中土方は、局長の近藤勇を、新政府軍に投降させた!? 土方の思惑と、非情な近藤の最期とは? 江戸から奥羽、蝦夷へと転戦し、最後まで旧幕府軍として戦い続けた土方。 しかしそもそも、新政府軍に勝てるとは思っていなかった!? 一体土方は、何のために戦い、何を守りたかったのか? そして、鬼の副長・土方歳三の、劇的な最期とは・・・
昭和43 (1968) 年12月10日、午前9時20分。 「三億円事件」発生。 白バイ警官に扮した犯人による、僅か3分間の犯行、 その後の懸命な捜査にも関わらず7年後、遂に時効を迎え、 犯人も奪われた3億円も闇の中…。 発生から50年以上を経た現在でも、日本犯罪史上 最も有名な事件と言える。 犯人が打っていた布石、周到な犯行準備とは? 遺留品が150点もあったにも関わらず、犯人に辿りつけなかったのはなぜ? 犯人に最も肉薄した、最大の手がかりとは? 事件解決を阻んだ、時代の変化とは? なぜ、「三億円事件」は迷宮入りしたのか? その真実に迫る!
歌舞伎の題名である「忠臣蔵」として知られる赤穂事件。番組では、これまでも「浅野内匠頭は名君だったのか?」「忠臣・討ち入り24時」「忠臣蔵〜四十七士の知られざるその後」など様々な角度で鑑定してきました。今回のテーマは「お金」。大石内蔵助は、赤穂城開城の事後処理が終わってから吉良邸討ち入りまでのお金の動きを「預置候金銀請払帳」という文書に記録しています。そこに記されていた総予算は、およそ8364万円。 吉良邸討ち入りという大プロジェクトを秘密裏に遂行するにあたって、江戸・上方間の旅費、江戸でのアジトの維持費、各人の生活費、討ち入り実行のための武器購入費など、その使途は多岐に渡っています。そもそも、8000万円を超える大金をどうのように捻出したのか、討ち入り強硬派、慎重派を調整しながらどう支出していったのかなど、今までとは違う切り口で「忠臣蔵」を徹底鑑定します。
今から500年前。 この世に生を受けた一人の戦国武将。 のちに「甲斐の虎」と称えられる武田信玄である。 信玄が合戦におよんだ数、130戦余り。 敗北したのは2度だけ。 あの織田信長や徳川家康さえも恐れさせた信玄は、 戦国武将の中でも群を抜いた「負けない男」だった。 文武両道で聡明な信玄が一転、何をやってもダメな少年に!? 信玄はなぜウツケとなったのか? 前代未聞の無血クーデター! 信玄が実の父を甲斐国から追放した本当の理由とは? 政治家としても優れていた信玄。 若い頃に培った人心掌握術にも迫る!
元禄の文豪、井原西鶴が元禄5年(1692)に刊行した「世間胸算用」。 5巻からなり、大坂と京都を中心とした大晦日の人間模様を画いた短編20話が、挿絵と共に記されている。 副題は、「大晦日は一日千金」。 今回は、その「世間胸算用」を通して江戸時代の人々の大晦日の様子を紹介! 江戸時代の大晦日、町は借金取りだらけだった? 借金取り 対 お金を返せない庶民!その驚きの攻防戦とは!? 大晦日に伊勢海老が売り切れ? 質屋が大繁盛? 庶民は正月準備に四苦八苦!一体なぜ!? 大晦日の風物詩、除夜の鐘と年越し蕎麦の話が、 「世間胸算用」にはない?西鶴が書かなかったワケとは!? 大晦日の庶民たちの悲喜交々に迫る!
鎌倉で日本初の武家政権・鎌倉幕府を開いた源頼朝。 彼の人生は実に波乱に満ちたものであった。 武士の棟梁の子として生まれるも、罪人として伊豆に流罪に。 そこから何度も命の危機に晒されながらも這い上がり、ついには征夷大将軍にまで上り詰めたのだ。 彼がなぜ、流人から将軍になれたのか? 頼朝の数奇な人生に迫って行く。 平清盛との戦いに父と共に参戦するも敗れ、処刑されるはずだったにも関わらず、何故か伊豆への流罪で済んだ頼朝。 その裏には2人の女性の影が!? 平家打倒を胸に秘めながら20年もの流人生活を過ごした頼朝。 彼はそこから如何にして、挙兵できたのか? 平家滅亡の功労者、弟の義経とまさかの対立。 頼朝が実の弟を死に追い込んだ理由とは?
鬼…それは日本人にとって最も身近な物の怪。 鬼にまつわる伝承は日本各地に残り、 「桃太郎」や「こぶとり爺さん」など物語の敵役としてもお馴染み。 鬼退治をテーマにした漫画「鬼滅の刃」の大ヒットも記憶に新しいところだが… いったい鬼とは何なのか? 如何にして生まれたのか? 今回は鬼の正体を徹底検証! 昔話「桃太郎」にはモデルとなる鬼伝説があった! そこに登場する極悪な鬼の意外な仕事とは? 貴族たちがこの世の春を謳歌する平安京は、実は鬼の巣窟! 多くの人間が鬼に食われていたというが、一体なぜ? 最強の鬼といわれる“酒呑童子”! しかしライコウこと源頼光にはあっさりと討たれてしまった!? その意外な理由とは?
少年漫画雑誌で話題を呼んでいる歴史漫画がある。 その主人公は実在の人物で、鎌倉時代末期、 北条家に生まれた若君、北条時行。 北条家は、鎌倉幕府将軍の補佐をする執権の座に代々就き、 幕府の実権を握り続けていた。 当然時行も、その恩恵を受け、生涯安泰に暮らせるはずだったが、 5歳の時、運命が暗転する・・・鎌倉幕府が滅亡してしまったのである。 なんとか鎌倉から逃れた時行は、 やがて北条家と鎌倉幕府を再興すべく、立ち上がるが、 そんな時行の前に大きく立ちはだかった人物がいた。 やがて室町幕府を開くことになる、足利尊氏。 時行と尊氏、二人の戦いは、20年にも及ぶことに。 実は時行には、“逃げ足が速い”という才能があった。 「逃げ上手な若君」とも呼ばれ、何度も窮地に陥りながら、 その度逃げ果せてみせ、尊氏に挑み続けたのである。 時行は、如何にして逃げ延びたのか? 一体、どこに潜伏していたのか? 信州に伝わる、逃げ上手な若君にまつわる数々の伝説とは? そして尊氏のことを憎み続けた時行。 一体、二人の間に何があったのか? 永きに渡る逃亡生活の末に待ち受けていた、時行の悲しき運命とは・・・
今回の主人公は、江戸幕府11代将軍・徳川家斉! …といっても、「家斉って誰よ?」という方もいるのではないだろうか。 確かに、初代・家康や8代・吉宗に比べるとイマイチ、マイナーな印象だが、実は在位50年、最長の50年! もうけた子どもの数、50人以上! という、結構トンガった将軍だった。 なぜ、後継順位三番目という、可能性がほとんど無かったのに かかわらず将軍になれたのか。就任にまつわる黒い噂とは? 子どもを50人以上もうけたのには、深い理由があった? 幕府財政を傾かせるほどの贅沢三昧には、ある意図があった!? 一体それは? 財政危機を乗り切った裏ワザ、奇策とは? そしてなぜ、政治に無関心、無能と言われながらも最長の政権を築けたのか? 知れば知るほど正体をつかませない、家斉こそが最強の将軍だったのでは?と思わせる不思議な人物。 はたして、徳川家斉とは何者だったのか? その真実の姿に迫る!
享禄3年(1530)1月21日。 雪深き越後国に一人の男の子、上杉謙信が生まれた。 やがて若武者へと成長した謙信は、龍の如く戦国の世を駆け抜けていく。 人々はその生き様をこう称した。「越後の龍」と。 幼い頃わんぱく少年だった謙信は、 父・為景に嫌われ、いやいや寺に入れられた!? そこで出会った生涯の師。 謙信を「義の武将」に育てたその教えとは? 謙信が実の兄との対立!? 兄から守護代の座を奪った? 越後国を治めることになった驚きの真相とは? 謙信の前に立ちはだかる甲斐の虎・武田信玄! 激突!「川中島の戦い」は如何にして始まったのか? 若武者 上杉謙信に迫る!
明治時代を代表する女流作家、樋口一葉。 その人生は24年あまりと短く、小説家として活動したのはわずか5年。 その中で、20篇以上の小説を遺した天才作家。 18歳で小説家を目指しやっとデビューするも原稿料がもらえない? 一体、なぜ? 生涯たった一度の恋に落ちた一葉。 互いに心を通わすも、突然の絶交宣言! 理由は、あらぬ噂のせい? 『たけくらべ』に『にごりえ』など数々の名作を世に送り出したのは 亡くなる前の「奇跡の14か月」だった! その濃密な日々とは? 一葉の短くも濃い人生に迫る!
徳川の世が終わる大政奉還のおよそ30年前… 天保8年、1837年2月19日、 大坂の町が真っ赤に燃え上がった。 火を放ったのは、元幕臣の大塩平八郎。 幕臣が幕府に武力で刃向かうことは前代未聞… 江戸時代になってから初めてのことだった。 大坂の与力だった平八郎が幕府に背いた理由とは? 大筒の号砲を轟かせ、大坂市中を焼き払ったのはなぜか? そして、反乱の意外な結末と、平八郎の衝撃的な最期とは? 日本史の教科書には必ず載っているものの、 その詳細はあまり知られていない“大塩平八郎の乱”… 今回はその真相に迫る!
下克上蔓延る、戦国の世。 そんな乱世に終止符を打とうと、天下統一を目指したのが、織田信長と豊臣秀吉であったが、 今回の主役は、この二人に使え、その偉業を陰で支えたと言われる、前田利家。 《加賀百万石》と称される、加賀藩の礎を築き、 今尚地元金沢では、親しみを込めて「利家公」と呼ばれる利家だが・・ もともと尾張国の豪族の四男として生まれている。 しかしそこから、やがて豊臣政権のナンバー2に大抜擢。 まさに、絵に描いた様なサクセス・ストーリーである。 一体利家は、如何にして成功を収めていったのか? その人生を見ていくと、4つのターニングポイントがあった。 一つ目は、信長に仕えていた23歳の時。ある事件を起こし、織田家から追放されるのだが・・ そこからどうやって出世していったのか? 二つ目は、本能寺の変で、信長が自害した翌年47歳の時。 織田家の家臣たちの主導権争いに巻き込まれた利家は、厳しい選択を迫られるのだが・・ そして三つ目は、56歳の時。秀吉は、天下統一を成し遂げ、 次なる野望「朝鮮出兵」に向け、動き出すのだが、そこでとんでもないことを言い出す・・ 側に仕えていた利家は、果たしてどうしたのか? 最後は、亡くなった年、63歳の時。秀吉亡き後、不穏な動きを見せる徳川家康と対立! 家康と戦うのか?それとも・・・この時の対応が、その後の前田家の運命を決めた!? 《戦国三英傑》信長、秀吉、家康と大きな関わりを持つ、 戦国史を語る上では、欠かせないキーマン・前田利家の生き様に迫る!
今から70年以上前、終戦直後の日本を震撼させた「帝銀事件」。東京・豊島区にあった帝国銀行に都の職員と名乗る男が現れ、銀行員ら16人に毒物を飲ませ12人を殺害、現金などを奪った凶悪事件である。なぜ銀行員たちは、簡単に毒物を飲んでしまったのか?その裏にあった戦後の日本が抱えていた悲しき状況とは!?▽容疑者として逮捕された画家・平沢貞通は自白するも一転、無罪を主張!真相解明の鍵を握るのは、使われた毒物だった!?▽死刑確定から32年、18回に及ぶ再審請求も全て棄却。それでも、最後まで平沢の刑が執行されなかった理由とは?
今から1400年以上前の6世紀、 日本に伝来したばかりの仏教をめぐってヤマト政権の二大勢力が激突した。 仏教を受け入れるべきと主張する名門豪族の物部氏と、 仏教を受け入れるべきではないと主張する新興豪族の蘇我氏である。 両氏族は激しくいがみ合い、 ついには日本初の宗教戦争ともいえる“丁未(ていび)の乱”に発展。 聖徳太子こと厩戸皇子を味方に付けた蘇我氏が勝利し、敗れた物部氏は滅亡した… と『日本書紀』は伝えている。 しかし、近年の研究によって意外な事実が明らかになってきた。 物部氏と蘇我氏の対立は仏教の受け入れが原因ではない? そこには欲望にまみれた権力者たちの陰謀がうごめいていた!? 物部氏を滅亡に導いたのは、皇室の大スキャンダルが起因? 推古天皇を激怒させた物部氏の蛮行とは!? 物語よりも刺激的な古代史ミステリー…今回はその謎に迫る!
時は江戸幕府4代将軍・徳川家綱の治世。 あの伊達政宗を藩祖とする伊達家仙台藩で 江戸時代最大のお家騒動が起こる。 世に言う「伊達騒動」である。 幕府・大老の屋敷で仙台藩士同士が斬り合い!? 前代未聞の刃傷事件はなぜ起きたのか? 伊達騒動の発端は伊達政宗の孫の若殿様が21歳で隠居したことだった! 一体何があったのか? 伊達騒動は幕府の陰謀!? 実は騒動の裏には黒幕がいた!?
風雲急を告げる幕末。 鎖国から開国へ転じた江戸幕府は、77人から成る使節団をアメリカに派遣した。「万延元年遣米使節」である。 なぜサムライたちは遠く離れたアメリカに向かったのか? 開国後、初めての公式使節団だった彼らが背負っていた重責とは!? 使節団の護衛艦「咸臨丸」に乗った勝海舟と福沢諭吉が船内で 対立!?一体、何があったのか? 発達した文明を前に感動!西洋料理に四苦八苦! サムライ達が初めて目にしたアメリカの姿とは? 使節団はアメリカげ大歓迎! パレードまで開かれ観客はなんと50万人! 中でも若きサムライがアイドルになってモテモテ!? アメリカの女性たちのアイドル「トミー」とは? 10か月に及ぶ前代未聞の旅で、使節団は何を思い、何を得たのか?
鎌倉幕府樹立、最大の功労者と言われ、 将軍・頼朝の妻・政子や、大河ドラマの主人公として、 注目を集める義時の父である、北条時政。 時政は、頼朝亡き後、二代将軍・頼家、三代将軍・実朝に仕え、実朝の時代には、将軍を補佐する初代・執権となるなど、代々の鎌倉殿を支え、150年近く続く鎌倉幕府の礎を築いた人物として知られる。 ところが、この時政、かなりの曲者で裏で、数々の陰謀を企んでいたという疑惑をかけられているのである。 頼朝と娘・政子の結婚を認めた裏に、ある打算が・・ 幕府樹立後、頼朝から冷遇され、とんでもない陰謀を企てた・・ 鎌倉殿の13人に選ばれ、他のメンバーたちを殺害した・・ さらには三代将軍・実朝まで、手にかけようとした!? 果して、時政は、鎌倉殿の敵だったのか?味方だったのか? そして、権力の魅力に取り憑かれた時政の末路・・ 時政を権力座から引きずり降ろしたのは、一体誰だったのか?
昭和47年(1972)3月21日、 日本考古学界に空前の大ニュースが飛び込んできた。 奈良県明日香村にある高松塚古墳から、極彩色で描かれた壁画が発見されたのである。 世紀の大発見に日本中が興奮し、世に古代史ブームを巻き起こした。 そして、それから11年後の昭和58年(1983)11月、 これまた明日香村で、日本で2つめの本格的な壁画古墳・キトラ古墳が見つかり、 古代史ブームはさらに過熱。 しかし、発見から30年以上経った今でも、2つの古墳は多くの謎に包まれている… 2つの距離はわずか1.2km。 石室の大きさや壁画の内容も似通っている高松塚古墳とキトラ古墳。 兄弟古墳とも呼ばれる2つの古墳の意外な関係とは? 今なお明らかになっていない2つの壁画古墳の埋葬者…… 謎を解くヒントは壁画にあった? 壁画に描かれた飛鳥美人が教えてくれる、埋葬者の正体とは? さらにコンピューターグラフィックスで壁画を完全復元。 そこに描かれていたのは、なんと古代のホッケー!? 古代の人々が壁画に込めた驚きのメッセージとは? 太古のロマンに思いを馳せ、1300年前にタイムスリップ!
江戸時代初頭の慶長17年(1612)4月13日、関門海峡に浮かぶ小さな無人島で日本史上もっとも有名な決闘が行われた。 宮本武蔵と佐々木小次郎の“巌流島の決闘”である。 小次郎が物干竿と呼ばれる長刀を一閃するも、武蔵はこれを紙一重でかわし、船をこぐ櫂を削った木刀で小次郎の頭を強打。 倒れて動かない小次郎に息があることを確認した武蔵は、待たせていた小舟に飛び乗って巌流島を後にした。 …とドラマや映画では描かれているが、これは後世になって多分に脚色された物語。数少ない一級史料を入念に検証すると、通説とは全く違う衝撃の事実が浮かび上がってきた。 佐々木小次郎といえば、つばめ返しを操る若き天才剣士でしかもイケメン…というイメージだが、本当は還暦を超えた老剣士だった!? 武蔵が勝利した大きな要因といわれている、2時間以上の大遅刻。 しかし、巌流島の近くに建つ武蔵の事績を刻んだ石碑には“両雄同時”と刻まれていた!? 決闘後、小次郎は息を吹き返すも、袋叩きにあって殺されてしまった!? 歴史に残る大一番の裏側にいた、意外な黒幕とは!?
日本政府は現在、女性の活躍を推進すべく、ジェンダー平等、 社会的な男女の役割による差別のない社会を目指している。 その同じ思いを抱き、日本における女性解放運動の 先駆けとなった人物が平塚らいてうである。 若きらいてうが東大出の青年と心中未遂騒動!? その後の人生を大きく変えた騒動のてん末とは? 日本初の女性による女性のための文芸雑誌「青鞜」の 創刊に乗り出したらいてう。 しかし、資金がない!?一体どう工面したのか? らいてうが歌人の与謝野晶子と対立!? 「母性の保護」を巡る激しい論争の真相にも迫る!
江戸時代末期、黒船来航でアメリカに開国を迫られた日本は、激動の時代を迎える。 そんな時代のかじ取りを担うことになったのが、江戸幕府14代将軍・ 徳川家茂だった。 その家茂は、もともとは紀州藩主で年齢も13歳。 そんな家茂が将軍になるまでには、ライバルとされた一橋慶喜との将軍の座をめぐる争いがあったが、如何にして家茂のその争いに勝利したのか? そこには、大老・井伊直弼の暗躍が!? さらに、家茂は幕府と朝廷の思惑のため、孝明天皇の妹・和宮と政略結婚をすることに。しかし、その夫婦仲は円満、一体、なぜ? そして、倒幕運動が激化する中、家茂は長州征討に乗り出すが、大坂城で非業の死を迎える。その驚きの死因と、和宮との悲しい別れとは?
古代より続く日本の呪術の歴史。 そこには、国を支え、人々を守ってきた呪術師たちの様々な戦いがあった。 弥生時代、呪術の力で邪馬台国の女王となった卑弥呼! しかし、その呪術が効かず殺された!? 卑弥呼を追い詰めた意外な敵とは? 空海が雨乞い対決! それが、命を懸けた呪術バトルに発展!? 一体、なぜ? 平安時代最強の陰陽師・安倍晴明! 最大のライバル・蘆屋道満との呪術対決の驚きの真相とは? 鎌倉時代に襲った日本最大の危機! モンゴル軍が攻めて来る! その危機を救ったのも、なんと!呪術だった? 時代に翻弄された呪術師たちの戦いに迫る!
日本中を震撼させる事件が起きたのは、明治24年(1891)5月11日のこと。 ロシアから来日していたニコライ皇太子を、 警備にあたっていた滋賀県警の巡査・津田三蔵が、いきなり斬りつけられたのだ。 当時のロシアは、世界最大の領土を有し、最強の軍隊を擁する超大国。ロシアの怒りを買い、全面戦争になれば、日本は滅ぼされると、国中がパニックに陥る。 国民は、謹慎の意を示そうと、大相撲場所は取りやめになり、株式市場は取引中止。 事件を聞いた女性が、悲嘆にくれ、自殺するという悲劇まで起こる。 なぜ津田三蔵は、凶行に及んだのか? そこには、あの西郷隆盛が大きく関わっていた!? 今も残る証拠品が明かす、事件の真相とは? ロシアの怒りを鎮めたのは、明治天皇だった? 天皇が見せた、前代未聞の行動とは!? そして犯人の津田三蔵の処罰をめぐって、 内閣が、裁判所に圧力をかけた!? 日本の三権分立のターニングポイントとなった、裁判の行方とは? 近代国家を歩み始めた日本を襲った未曾有の危機、大津事件の真相に迫る!
織田信長。 明智光秀による謀反「本能寺の変」がなければ、天下統一を成し遂げたであろう戦国の革命児だが、彼も最初から、巨大戦力を擁した大大名だったわけではない。 信長は、尾張国の守護・斯波氏に仕える守護代・織田家の更に分家、家老という身分に過ぎなかった。 そんな身分から、どうやって天下取りへと駆け上がったのか? その最初の野望は、自国・尾張の統一だった! 奇矯な振る舞いから「うつけ」と呼ばれ、疎んじられていた信長を、 信秀は、後継者に指名する。「尾張の虎」と呼ばれた父は、「うつけ」ぶりの真意を見抜いていたのか? 19歳で家督を継いだ信長。「尾張統一」の戦いの前に立ち塞がる敵、また敵。 しかし信長には幼いころから共に鍛え上げた 最強の家臣団「馬廻り衆」がいた! 比類なき発想の戦略と、最新鋭の兵器を備えた戦闘集団の秘密とは? 「尾張統一」への最大の壁となったのは、弟だった! 母や重臣たちの後ろ盾を得て反旗を翻した弟・信勝。 血を分けた兄弟を斃すため、信長がとった奇策とは? 若武者信長・尾張統一の物語!
関ヶ原の戦いが起こるおよそ半年前、豊後国の臼杵に一隻のオランダ船が到着。 船は海賊船ではないかと疑われ、船員たちの処遇は天下人になりつつあった徳川家康に委ねられることとなった。 その際、家康と謁見し、見事信頼を勝ち取って旗本に取り立てられたイギリス人航海士がウィリアム・アダムス…後の三浦按針である。 日本までの航海は苦難の連続! イギリスで妻子と共に幸せに暮らしていたアダムスが遥か極東の日本にやって来た意外な理由とは? なぜ家康は、海賊とみなされていたアダムスを許し、召し抱えたのか?そこには天下人ならではの緻密な策略があった!? イギリスへの帰国のチャンスが訪れながらも、最後まで日本に留まり続けたアダムス!驚きのそのワケとは!? イギリスと日本…ふたつの国のはざまで懸命にもがき生き抜いた、 青い目のサムライ・三浦按針の数奇な人生に迫る!
平成16年(2004)に発行された千円札。 描かれている肖像は、日本を代表する細菌学者、野口英世。 科学者として初めて日本で紙幣に採用された人物である。 梅毒や黄熱病など、長く人類に死の恐怖を与え、 病の解明に人生をかけた、その偉業が讃えられた。 しかし、野口英世の行く道には、 いくつもの苦難、大きな壁が立ち塞がっていた。 幼い頃、火傷で左手にハンデを負いながらも医学の道へと進んだ英世。 そこには医師へと後押しした恩師たちとの感動秘話があった! 派手な浪費に結婚詐欺? 支援者たちを困らせた驚きの英世の裏の顔とは? 三度、ノーベル賞候補になるも受賞ならず! 英世が受賞できなかった真相とは?
時は天正18年、1590年、戦国乱世。 奥州、東北地方で事件が起きる。 「独眼竜」と呼ばれた伊達政宗の毒殺未遂事件である。 政宗の弟・小次郎を溺愛する母が、嫡男である政宗を亡き者にし、 小次郎に伊達家を継がせようとしたと言われているが・・・ その真相とは? 通説では政宗毒殺を企てたのは母・義姫といわれているが全くのウソだった!? それを示す数々の手紙・・・驚くべき真の首謀者とは!? 母の代わりに、政宗に殺された弟の小次郎! しかし、実際は殺されずに、生きていた!? 政宗ゆかりの寺に残された史料に、驚きの内容が! 政宗毒殺未遂事件の真相解明の鍵を握るのは、 天下統一目前だった秀吉? 秀吉に追い込まれた政宗、苦渋の決断とは!?
終戦から4年後の昭和24年(1949)7月。 “戦後最大の謎”とも呼ばれる事件が起きる。 国鉄初代総裁の下山定則氏が、常磐線下り列車に轢かれ、北千住駅と綾瀬駅との間で轢死体となって発発見されたのである。 前日国鉄で、3万人にも及ぶ人員整理が行われたことから、 様々な憶測を呼んだ。 「人員整理に反発した国鉄労働組合やき共産党員の報復か?」 「大量解雇を苦にした末の自殺か?」 捜査が進められる中、現場や遺留品から不審な点が・・ 大量の油が付着した下山総裁の衣服や、不自然な血痕群など。 そして遺体発見現場付近で、多数寄せられた下山総裁の目撃証言。 警察内部では、「自殺か?」「他殺か?」を巡り、 捜査1課と2課が対立! しかし事件から、およそ半年後、事件を解決しないまま捜査本部が突如解散! 警察内部で一体何があったのか? 昭和という闇に葬られた未解決事件「下山事件」の真相に迫る!
今、なにかと話題の鎌倉幕府将軍「鎌倉殿」。 その将軍を助ける執権の3代目を務めたのが、北条泰時。 祖父・時政、父・義時の跡を継ぎ幕府を支えた泰時は時に心優しき聖人君子と称えられ、時に冷徹な独裁者と恐れられた。 「武士の世」への転機となった「承久の乱」勃発! この時、幕府軍総大将を務めた泰時。 しかし出陣した時、率いた兵はたったの20騎ほどだった! この一大事になぜ僅かな兵しかいなかったのか? 更に、一旦出陣した泰時はなぜか一人で戦線離脱? その奇妙な行動の意味は!? 3代執権となった泰時は、父・義時に倣って将軍を助け、幕府を運営する13人からなる「評定衆」を結成。 争乱が終わった、新しい時代に相応しい「鎌倉殿の13人」とは? 泰時が成した最大の仕事、武士の法令「御成敗式目」の制定。 土地の取得や財産の相続、更には不義密通や、なんと悪口に対しての罰則まで。 実直な泰時らしい厳しいルールとは? 「道理の男」北条泰時の真実に迫る。
2019年8月12日(月)放送 今年も間もなく訪れる8月15日。 それは日本人にとって決して忘れることの出来ない日… そして、忘れてはならない日… 昭和20年(1945)8月15日正午。 昭和天皇の肉声… 玉音放送によって、国民に太平洋戦争の敗戦が告げられた。 ≪~堪え難きを堪え、忍び難きを忍び~≫ 天皇のお言葉通り、屈辱に堪え忍ぶしかなかった日本。 ところが… 「神国日本に敗戦はない!」と徹底抗戦を叫び、 玉音放送を阻止しようとクーデターを起こした 将校たちがいたのである。 放送の直前まで続いていた、玉音放送をめぐる熾烈な攻防戦。 大日本帝国最期の一日に、いったい何が起こっていたのか… 戦争の本当の恐ろしさをまざまざと見せつける、 緊迫の24時間に迫る!
戦国最強の武将は誰だったのか? 歴史ファンなら誰もが一度は考えたことのあるテーマだが、当番組がイチオシするのはこちらの武将… 一度は浪人まで身を落としながらも不死鳥の如く蘇り、見事、大名に復帰した、立花宗茂である。 野犬が襲い掛かって来ても顔色一つ変えず、イガ栗を踏んづけてもなんのその。 幼少の頃から肝が添わっていたという宗茂…最強の武将は如何にして育まれたのか? 豊臣秀吉から“天下無双”と絶賛され、21歳で大名に昇格! 関ヶ原の戦いでは秀吉への義を貫いて西軍に付いたのだが…宗茂は関ヶ原で戦っていない! その意外な理由とは? 関ヶ原の戦い後、改易されて浪人となるも、家康からその武勇を惜しまれて大名に返り咲き! しかも旧領まで回復したのは、改易された88家の中で宗茂ただ一人! しかし、その裏には天下人・家康の緻密な策略があった!?
日本はどのように誕生し、国家となっていったのか… この疑問に答えてくれる貴重な資料が、 日本初の国家公認の歴史書といわれる『日本書紀』である。 今から1300年以上前の飛鳥時代に、 第40代・天武天皇の命によって編纂が始まり、 およそ40年もの月日を費やして奈良時代に完成した。 そこには神々による日本の創生と、歴代天皇家の事績が記され、 “日本の歴史”として時を超えて読み継がれてきたが… そこに記されていたのは、 天武天皇をはじめとする時の権力者たちが都合よく作り変えてしまった “虚構の歴史”であった… 大海人皇子と大友皇子が皇位を争った、古代最大の内乱“壬申の乱”。 これに勝利し、天武天皇となった大海人皇子が日本書紀によって隠蔽した 不都合な真実とは? 大化の改新の発端となった蘇我入鹿の斬殺。 しかし入鹿は悪人ではなく、 中大兄皇子と中臣鎌足は事件の首謀者でもなかった? 日本書紀によって改ざんされた事件の意外な真相とは? 歴史とは一体何なのか…常識が覆る古代史ミステリー。 お見逃しなく。
天下分け目の合戦、“関ヶ原の戦い”。 ご存知、勝利したのは、東軍でした。勝因は、西軍の武将たちの“裏切り”。 裏切ったと考えられるのは、小早川秀秋、島津義弘、毛利輝元、吉川広家。 この中で、誰が最も西軍に痛手を与え、得をしたのか? 小早川秀秋は、なぜ家康に寝返ったのか? その裏には、複雑な生い立ちと、憎しみが・・・ “鬼”と恐れられた、闘将島津義弘の意外な裏切り方、さらには伝説の脱出劇、“島津の退き口”とは? 西軍の大将でありながら、実に大胆な行動に出た、毛利輝元。 その狙いと、果てなき野望とは? そして毛利家の家臣・吉川広家。裏切りに隠された想いとは? 複雑に絡み合った、4人の武将たちの思惑を徹底検証。 果して、真の裏切り者は、一体誰なのか? さらには、彼らのその後の運命は・・・ 日本の歴史を変えたとも言われる大戦。 ちょっと角度を変えて見てみると、新たな一面が見えてくるかもしれません。
太古の昔、日本で作られた「土偶」や「埴輪」。 その愛くるしいフォルムやデザインから・・・「カワイイ!」「オシャレ!」と、近年、多くの女性たちの心を掴んでいる。 土偶と埴輪…どちらも粘土でできている土製品だが、実は似て非なるもの。そもそも誰が、一体何のために作ったのか? 妊婦を模ったものと言われてきた土偶!それを覆す新説が登場! 土偶のモチーフは別のものだった!? 船に、家に、鳥? 様々な形がある埴輪! その埴輪から当時の習慣や風俗が分かる!? 群馬県の保渡田八幡古墳から出土した54体の埴輪群像! その配置には意味があった!? 一体、何の場面を再現しているのか?
1868年9月8日。 改元の詔が発せられ、「明治」という新たな時代が始まった。 新政府は、近代国家建設のスローガンとしたのが、「殖産興業」と「富国強兵」。そして「文明開化」である。 凄まじいスピードで入ってくる西洋の文化。 そんな時代の大きな転換期の中、庶民たちはどう対応していったのか?庶民たちの文明開化の光と闇とは? 旧暦から新暦へ! 発表から実施まで わずか23日の超スピード改暦で、庶民の正月が2回になった!? 西洋風の最新の建物が立ち並ぶ銀座レンガ街! しかし、なぜか人々が次々と街から消えた!? 一体、なぜ? 文明開化は良いことばかりではない? 貧困が生んだビジネス「残飯屋」とは!?
明日をも知れず、武将たちが戦いに明け暮れた戦国時代は、 強い者だげが生き残れる、まさに弱肉強食の世界。 そのため織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった勝者の目線から 語られることが多いが・・・ 今回は目線を変えて、戦国時代の負け組たちに焦点を当て、 3人のダメ武将に焦点を当てる。 戦国最弱とも言われる常陸国の武将・小田氏治。 戦に負け続け、居城を追われながら、その都度立ち上がり、 71歳まで生きた氏治の生き残り術とは!? 権謀術数渦巻く戦国の世にあって、 あの今川義元の弟・氏豊は、戦国一のお人好しだった!? 敵将を信じてしまい、招いたとんでもない事態とは? 数々の戦で武功をあげ、外交交渉にも長けた会津の大名・蘆名盛隆は、大の美少年好きだった!? しかしそれが原因で、やがて惨殺されることに・・・一体何があったのか? 3人のうちで、最もダメだった戦国武将は誰か? 戦国時代に、儚く散っていた敗者に迫る。
鎌倉時代後期の文永11年(1274)10月。 モンゴル軍を中心としたおよそ3万の兵が、 700艘あまりの軍船と共に九州に来襲。 世に言う元寇である。 この未曾有の国難を予言し、 鎌倉幕府に対して警告を発していた 一人の僧侶がいた。 それは、日蓮宗の開祖・日蓮。 地震や洪水が頻発し、疫病がはびこる鎌倉に現れた 日蓮は、幕府から度重なる弾圧を受けた。 鎌倉幕府は、日蓮の何を恐れたのか? 仏教の坩堝であった鎌倉に乗り込み、 辻説法を始めた日蓮。 そこで日蓮に降り掛かるのは、周囲からの罵声! 一体なぜ? 元寇だけではなく、内乱も予言! しかし、幕府は日蓮の警告を無視! そのワケとは? ついに捕らえられ、まさに斬首寸前… 突如として光が飛来し、日蓮を救った? 摩訶不思議な奇跡の真相とは? 鎌倉を追放され、佐渡へ島流しに! 飢えと風雪に苦しめられた日蓮は なぜか喜びに満ちていた? 鎌倉幕府が恐れた日蓮、次々と国難を予言した男。 その歴史の謎に迫る!
日本がまだ「倭国」と呼ばれていた飛鳥時代の663年。 朝鮮半島の錦江河口、白村江で倭国軍と唐軍との海戦が繰り広げられた。 国を揺るがせた「白村江の戦い」の勃発! 戦いの背景は、朝鮮半島の国・百済が唐と新羅の連合軍に攻め滅ぼされ、 百済救援のため、倭国が兵を送ったこと。 戦を決断したのは時の大王・斉明天皇とその息子・中大兄皇子。 なぜ、倭国は大国・唐を相手にして海の向こうの争いに参戦したのか? そこには百済との交流の歴史、そして中大兄皇子の秘めたる野望があった! 当初優勢に戦を展開していた倭国・百済連合軍。 しかし次第に劣勢に追い込まれ、ついに白村江の戦いで決定的な大敗! なぜ、倭国軍は惨敗を喫してしまったのか? 勝敗を分けた倭国軍と唐軍の兵の違いとは? 戦いに勝利した唐が、倭国に攻めてくる? 国家存亡の危機に、中大兄皇子が作り上げた鉄壁の防衛網! そして白村江での敗戦が、倭国にもたらしたものとは? 古代日本を襲った最大の危機!その真実に迫る。
安政6年(1859)10月27日、 日本の夜明けのために命を捧げた一人の男が刑場の露と消えた。 男の名は、吉田松陰。 主催する松下村塾から幕末維新の英雄を数多く輩出した、不世出の指導者である。 自らも大体過激な憂国の士として激動の幕末を駆け抜けたのだが… 家族が証言する素顔の松陰は非常にチャーミング。 九州での遊学を終えた松陰は、大晦日に間に合うよう急ぎ足で帰宅! 理由はお母さんが大好きだったから!? 酒も煙草も好まず、メシのおかずは味噌だけ!? 結婚も断り続けていたという松陰… ストイックに徹していた驚きの理由とは? 松陰は根っからの教え魔! 獄中でも勉強会を開き、松下村塾は24時間いつでも開校! その意外な教育方針とは?
今から、およそ670年前の室町時代創成期。 朝廷が二つに分かれ、南北朝時代とも言われた頃… 幕府内の抗争に端を発した全国規模の争いが勃発! それが「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」である。 相対したのは、室町幕府初代将軍・足利尊氏とその弟・直義。 兄弟による争いが全国に広がり、日本中の武士を巻き込んだのである。 尊氏の右腕として幕府内で活躍していた直義は、 なぜ、兄を裏切り幕府に反旗を翻したか。 そのきっかけは、直義と幕府重臣の対立があった!? 挙兵した直義は、幕府の敵である南朝と手を組んだ!? 禁断の一手を投じた直義の狙いとは一体? 日本全国にまで広がった尊氏と直義の争い。 戦が終わらない理由は、直義の誤解にあった? 血を分けた兄弟の骨肉の争い。そのあまりにも悲しい結末に迫る!
今からおよそ100年前の 大正10年、1921年、11月4日。 当時現職の第19代内閣総理大臣、原敬が東京駅で暗殺された。 犯人は大塚駅 鉄道職員の中岡艮一。18歳の青年だった。 憲政史上初めて、爵位を持たない”平民宰相”として初の本格的政党内閣を樹立した原は、何故、殺されなければならなかったのか・・・ 前代未聞の襲撃事件! 警察が護衛につきながら何故犯行は未然に防げなかったのか? 犯人・中岡が犯行直前に放った言葉・・・「この国賊!!!」 平民宰相が何故国賊と呼ばれたのか? 浮かび上がる犯行動機とは? 事件当日を徹底検証! 事件は中岡の単独犯ではなかった!? 驚くべき黒幕説にも迫る!
今からおよそ千年前の平安時代中期。 世界最古の長編小説といわれる古典文学が日本で誕生。 紫式部による「源氏物語」である。 そんな源氏物語には、当時の恋愛模様や貴族たちの日々の暮らしぶり、さらには、熾烈な権力争いなど、楽しみも苦しみも描かれている。 源氏物語に描かれた平安貴族たちの食事。 冷蔵庫もないのに夏に氷を食べていた!? 光源氏が元恋人の娘の恋のサポートで粋な演出! 部屋を明るくするイルミネーションの正体とは? 恋多き光源氏が死を悟って身辺整理! なんと、平安貴族たちも終活をしていた!? 不朽の名作・源氏物語が描く赤裸々な平安時代の貴族たちの暮らしとは?
太平洋戦争が終結して間もない頃・・・ 東京帝国大学の学生が莫大なお金を集め、法外な金利で貸し出す “闇金融”光クラブを設立し、そのおよそ1年後逮捕された! 東大の中でも一際優秀だった学生が、 悪の道へ進むきっかけとなった、ある出来事とは? 光クラブ設立から、わずか3か月で集めた資金は、 今の価値で、何と!10億円。如何にして、そんな大金を詰めたのか? “闇金融界の風雲児”ともてはやされた東大生社長。 しかし突如、その歯車が狂い出した!? 彼を破滅へと導いた、女性秘書の驚きの正体と、 世間を騒がせた衝撃の結末とは!? 戦後の混乱期に起きた経済事件。 その裏には、この時代を行きた若者の大きな苦悩があった・・・ エリート東大生が抱えていた闇とは、一体!?
今からおよそ800年前の承久3年(1221年) 京の朝廷に君臨する後鳥羽上皇が、鎌倉幕府執権・北条義時追討の宣旨を発する。幕府はこれに対し19万の大軍で京に進攻。 上皇と北条氏の全面対決「承久の乱」が勃発する。 良好な関係を築いていた、幕府と朝廷の間になぜヒビが入ったのか?後鳥羽上皇に義時追討を決意させた出来事。それは3代将軍源実朝を襲った、あの悲劇だった! 後鳥羽上皇は、義時を討っても幕府を倒すつもりはなかった? 歴代天皇でも最高の「治天の君」が抱いていた、大いなる野望とは!? 天皇の命令「宣旨」に逆らって勝った者なし! それでも幕府に上皇との戦いを決断させたのは、 尼将軍・北条政子の言葉だった!? そして勝敗は?「承久の乱」は日本に何をもたらしたのか? 歴史の転換点となった戦い。 その歴史の謎、鑑定します!
三重県伊勢市。ここには市の面積の4分の1を占める広大な御宮がある。日本人の心のふるさとと呼ばれ、年間800万人もの参拝者が訪れる伊勢神宮である。 全国にある、およそ8万の神社の中心的存在で、 日本初の正史『日本書紀』によれば、その歴史は2千年に及ぶ。 伊勢神宮は如何にして成立したのか? 日本人の心のふるさととして在り続けているのはなぜなのか? 今回はその謎に迫る! 内宮に祀られる皇祖神・天照大御神は、元々は別の場所に祀られていた!伊勢に祀られるようになった驚きの理由とは? 伊勢神宮で行われる祭典は、年間およそ1500回! 中でも最大の祭典【式年遷宮】は、なぜ20年周期で行われるのか? 犬までお参りしたという、江戸時代のお伊勢参りブーム! その裏には意外な仕掛け人がいた!?
今回の主役は、初代将軍・徳川家康をはじめ、2代将軍・秀忠、3代将軍・家光に比べて少し影の薄い・・・4代将軍・徳川家綱。 家光の嫡男で箱入り息子だった家綱。 生来、病弱だった家綱はなぜ父・家光から後継に選ばれたのか? 由比正雪の乱に明暦の大火! 幕府の屋台骨を揺るがす数々の危機に家綱はどう乗り切ったのか? 政務を老中たちに任せ「左様せい」と答えるだけだった家綱。 しかし、家綱がいなかったら江戸時代はもっと早く終わっていた!? “左様せい将軍“と揶揄された家綱が果たした大きな役割とは?!
様々な店舗が集う江戸の町。江戸城下では商人文化が花開いていました。 商人たちが生み出した斬新なアイデアとは? 現代に生かすべき江戸商人の極意や老舗の家訓にみる商人道に迫ります。
「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座りしままに 食うは徳川」。 天下取りを餅つきに例え、家康は信長と秀吉のいいところだけをうまいこと引き継ぎ、苦労せずに天下を取ったというのだが・・・ 実は家康の前半生は忍耐を要する苦難に満ちたものだった! 今回はそんな家康の若き日を鑑定! 織田家、今川家と人質として たらいまわしにされた幼き日々・・・ 家康はなぜ人質となったのか? それはなんと、今の価値で2千万円で売られたからだった? 2年にも及ぶ織田家での人質生活からようやく解放された竹千代。 .次に待ち受けていたのは今川家での人質生活。 しかし、今川での人質生活は家庭教師付きの厚待遇だった!? その裏にはあった今川のある思惑とは? 桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれ まさかの敗退! その時、家康は自害を決意した? それを思い止まらせた僧侶の一言とは?
群雄割拠する戦国の世で、覇者となるべく、戦いに明け暮れ、天下人に、あと一歩まで迫った織田信長は、最強の武将のひとりとして数えられ、今尚『戦国のレジェンド』として、高い人気を誇る。 そんな信長は、戦いの束の間、どんな風に過ごしていたのか? 今回は、その知られざる素顔に迫る。 豪華な料理を用意した家臣に大激怒! 信長が好んだのは、どんな食事だったのか? さらに信長が愛した意外なスイーツとは? 扮装しながら、領民とともに盆踊りに興じ、大盛り上がり? 信長は、戦国一のお祭り男だった!? そんな信長が、宣教師のために計画した、とんでもないサプライズとは? 鷹狩に、相撲、そして茶の湯と、実は信長、様々な趣味を持った趣味人だった! しかし、それらの趣味は、楽しむばかりでなく、実益を兼ねていた? 冷徹な武将として知られる信長が、最愛の女性が亡くなり、 三日三晩泣きはらした! 信長が最も愛した女性とは、誰だったのか?正室の帰蝶か?それとも側室?
戦火燻る幕末の世。 徳川将軍家が「朝敵」と謗られ、 その座を追われんとする15代将軍・慶喜の下で、 無血開城を成し遂げた男がいた。 勝海舟。 貧家に生を受けながらも蛍雪の功を積み、陸軍総裁に抜擢せられた彼は、 その豊かな知見と類稀なる交渉術によって四面楚歌の世を切り抜けてゆく。 敵対していた新幕府の首魁・西郷隆盛すら、 「勝海舟という人はどれだけ知略のある人かわからない」 「ひどく惚れ申した」。 同志である大久保利通にそう語ったという。 西郷との会談に漕ぎつけた勝が思い描いていたのはしかし、 平穏な無血開城の未来だけではなかった。 「慶喜亡命作戦」「江戸焦土作戦」。 諸外国へと張り巡らされた勝の緻密な策略の数々。 そして倒幕を叫ぶ新政府側に慶喜助命を承諾させた、渾身の一手とは。 勝海舟、その知略に迫る。
平安時代末期の元暦2年(1185)。 壇ノ浦で武士の二大勢力、源氏と平家が激突! この最後の源平合戦で源氏が勝利し、かつて栄華を極めた平家は滅亡する。 ではなぜ、源氏と平家は争うようになったのか? 因縁を生んだ最初の源平合戦こそ、26年前に起こった「平治の乱」 その主役は、平家棟梁・平清盛と源氏棟梁、あの頼朝の父である源義朝。 義朝が京で挙兵!御所を襲撃し、後白河上皇を幽閉。 なぜ、前代未聞のクーデターを起こしたのか? そこには、朝廷内の権力争いが深く絡んでいた! 都を支配下に置き、クーデター成功!? しかし清盛の奇策により、一気に形勢逆転! 一体、どんな手を用いたのか? 乱を収め、絶大な権力を手にしていく清盛! しかし、後に平家を滅ぼす大きな失策をしていた!? その過ちとは? 源氏と平家、最初の激突! その歴史の謎、鑑定します!
日本有数の豪雪地帯、福井県福井市。 現在は福井県庁が建つ福井城址に、この雪のように儚くも乱世を懸命に駆け抜けた武将の像が建っている。 武将の名は、越前国福井藩初代藩主・結城秀康。 その名は、実の父・徳川家康と、義理の父・豊臣秀吉から一字ずつ与えられたもので、戦国のサラブレットというべき人物なのだが…秀康の人生は我慢と屈辱の連続だった。 16年ぶりに授かった待望の男子。 にもかかわらず、家康は秀康に会おうとしなかった! それは秀康の出生のせい? 天下人・秀吉の養子となり、溺愛されるも! 実は、秀吉に殺される寸前だった!? その裏にあった戦国の世の非情な親子関係とは! 天下分け目の関ヶ原で重責を果たすも、後継者に選ばれたのは弟の秀忠!秀康が2代将軍になれなかった意外な理由とは!?
100年余り続いた戦国の世に終止符を打ち、天下統一を成し遂げた、豊臣秀吉。農民出身でありながら、天下人にまで上り詰めた秀吉は、成功者というイメージが強いが・・・ 実は、豊臣政権は15年ほどで崩壊し、豊臣家自体も、秀吉の死後、17年で滅びている。 その後、徳川家康が築いた江戸幕府が、およそ260年も続き、徳川宗家の家督が、今尚受け継がれていることことを考えると、あまりにも短い。 なぜ豊臣政権は短命に終わり、豊臣家は滅びてしまったのか? その裏には、秀吉の、数々の誤算があった。 “人たらし”で、織田信長をはじめ、数々の武将に取り入り出世していった秀吉。しかしその出世の武器“人たらし”で、墓穴を掘った!? 天下統一後、中国・明の征服という無謀な野望を抱いた秀吉。 その代償として招いた、とんでもない誤算とは!? 豊臣家を滅ぼすことになった徳川家康。 豊臣家滅亡のきっかけは、秀吉が、家康を、関東へ国替させたことだった!? 天下統一を成し遂げた男の、最大の誤算とは一体何だったのか!?
「風林火山」の旗の下、連戦連勝を続け、戦国時代最強と謳われた武田信玄。その家臣団の中核を担ったのが、「武田二十四将」。 中でも高い地位にいたのが今回の主役、穴山梅雪。 しかし彼の名は、家を滅亡に導いた「裏切り者」として知られている。 信玄の信頼篤く、武田家の外交を担っていた梅雪。 信玄亡き後も、跡を継いだ武田勝頼に仕えるが、武田軍と、織田・徳川連合軍が戦った「長篠・設楽原の戦い」で梅雪はいち早く戦線を離脱し、臆病者と非難される。一体、何があったのか!? 徳川家康に通じ、武田家から離反! 武田家壊滅の引き金を引いた梅雪の裏切り! その真相とは!? そして、あの「本能寺の変」に巻き込まれ、命がけの逃亡! 同行していた家康は助かるも、梅雪は命を落とすことに…。 何が、二人の運命を分けたのか!? 8年間お楽しみいただいきました、当番組ですが今回をもって終了となります。「にっぽん!歴史鑑定」最終回、お見逃しなく! 長い間ご視聴いただき、まことにありがとうございました。