天文五年、武田晴信(後の信玄)は信濃の国・海ノ口攻めで夜襲に成功し、初陣を飾りました。しかし、父・信虎は誉めるどころか、「なぜ落とした城を棄てて戻ったのじゃ…」と激しく罵倒(ばとう)したのです。晴信も負けずに「孫子曰く、兵は勝つを貴び、久しくを貴ばず」と反発します。父と子との確執は深まるばかりでした。
ある日、倉科三郎左衛門から国主への不満、領民たちの苦しみを訴えられた晴信(後の信玄)は、甲斐の国を守るために父の追放・隠居を決意します。そして、傅役(もりやく)の板垣信方に「信の置ける者を集めよ」と命じました。一方、父・信虎も晴信の蟄居(ちっきょ)を目論(もくろ)んでいました。親子の争いはいよいよ最後の時を迎えようとしていました。
父・信虎と晴信(後の信玄)、父子双方から身柄引取りの密書を受け取った今川義元は、信虎と手を結びました。晴信はその企てを見抜き、韮崎に現われた今川の使者を、義元の命に背く裏切り者として斬(き)り捨てました。武田家重臣の原虎胤、飯富兵部虎昌らも晴信に味方し、信虎は今川の兵に引き渡されます…。
新しい国主の誕生に沸く家臣たちの「御旗楯無、照覧あれ!」の声が、武田館に響き渡りました。晴信(後の信玄)は、まず、国の整備を大事としました。そんなある日、父・信虎が人質にした諏訪頼重の娘・湖衣姫と対面し、晴信は大きな衝撃を受けます。湖衣姫は、何者かに殺害された初恋の娘・おここに瓜二つだったからです。
甲府盆地が見渡せる山の上で、晴信(後の信玄)は嫡男・太郎に優しく語りかけていました。それは、「昔、甲府盆地は湖で、その上には十二人の神様が舞い、その一人の神様が湖に消えて盆地が現われた」という甲斐の国の湖水伝説でした。晴信は、家督を継ぐ太郎に、国を治める尊さを伝説になぞらえて説いたのです。
天下を狙う有力武将たちが四方の隣国にひしめく甲斐の国は、「攻めねば攻められる」という危機を常にはらんでいました。ついに晴信(後の信玄)は諏訪攻めを家臣たちに命じます。家臣たちは突然の出陣に驚きますが、すでに万全の準備が整っていました。情報戦を駆使した晴信は、一兵も失わず諏訪攻略に成功したのですが…。
和睦(ぼく)を結んだ諏訪家に内紛が起きました。晴信(後の信玄)は妹・禰々と亡き諏訪頼重の嫡男・寅王を旗印として擁立しました。紺地に金文字の「風林火山」と、赤地に金箔の「諏訪大明神」の旗をはためかせた雄壮な武田軍は、正義のために戦う軍勢として騎馬隊の地響きを轟(とどろ)かせて諏訪に入ります。
天文十一年十二月、晴信(後の信玄)の願いがかない諏訪頼重の娘・湖衣姫との祝言が執り行なわれました。近隣諸国の豪族たちが祝いの拝謁(はいえつ)に訪れますが…。晴信の正室・三条の方の侍女・八重は、おここと瓜二つの湖衣姫を見て驚き、「妖怪じゃ」と慌てふためきます。晴信の若さが招いた、新たな波乱が起きようとしていました。
祝言の翌朝、晴信(後の信玄)の正室・三条の方の所へ挨拶に赴いた湖衣姫に、三条の方は「殿との契りの様子を話せ」と冷たく迫りました。さらに、侍女の八重が「おここの怨(おん)霊であろう。正体見せよ!」と狂ったように湖衣姫の背を叩きます。屈辱を受けた湖衣姫は、「こうなれば、あの方から武田殿を奪ってやる」と決意するのでした…。
甲斐の国主になって二年、晴信(後の信玄)は重臣たちに「これからは、守りの戦にあらず…」と新しい国造りの考えを告げました。そして、攻めの戦を始め勢力の拡大を図っていきました。そればかりか戦の合間に、御勅使川(みだいがわ)の工事を見守り、金山の様子や城下の街づくりにも目を配るという精力的な国主ぶりを発揮します。
晴信(後の信玄)は信濃全土の平定を急ぎました。そのためには村上勢との戦いは避けられませんでした。天文十七年、上田原の戦いで二人の重臣、信方と虎泰が討ち死にし、初めて敗北を味わいます。その頃、越後の荒武者・長尾景虎(後の上杉謙信)は、兄の晴景を亡ぼし、越後守護代として春日山城に入りました。
湖衣姫との子・四郎が病気にかかります。八重が修験者を呼び寄せて、呪(のろ)いの祈祷(とう)「調伏胡麻」を行ったからでした。その頃、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)は、関東管領を追放した相模の北条氏康に天罰を下すと決意します。駿河の今川義元は「海を制する者は、天下を制す」と、時の権勢を見守っていました。
信濃を攻めはじめて八年、晴信(後の信玄)は小笠原長時・村上義清との決戦の時を迎えます。そんな折り、晴信の次男・二郎がはしかで失明してしまいます。それでも晴信は、北へ北へと軍を進め、信濃のほぼ全域を手に入れますが、同時に信濃の隣国・越後という強敵を目覚めさせることになります…。
晴信(後の信玄)の奇抜な戦法に、信濃の小笠原長時は「何たる数、山が揺れておる」と恐れおののき、城を撤退します。晴信は一兵も失うことなく勝利しました。その頃、今川義元の上洛を悩ませた尾張の織田信秀の葬儀が執り行われていました。そして、織田家嫡男・信長が尾張守護代を受け継ぎます。
甲府から川中島までは約160キロ。村上義清の葛尾城攻めを前に、晴信(後の信玄)は棒のごとく真直ぐな道を作り、のろし通信を駆使して情報の伝達を行いました。母の大井夫人は「そなたが守る国は信濃と甲斐の二国じゃ。天下とは悪しき夢…」と言い残し、晴信の行く末を案じながら、この世を去りました。
甲斐の晴信(後の信玄)とは…。越後の景虎(後の上杉謙信)とは…。二人は互いの腹の内を探っていました。天文二十二年、田植えが終わった頃、晴信は信濃の村上攻めを決行します。村上勢は真田の情報戦に惑わされ、ついには大須賀久兵衛が寝返り、村上義清は城を棄(す)てました。信濃完全制圧への長い戦いが始まりました。
善光寺平に迫る越後の兵六千。初めて目の当たりにする越後の景虎(後の上杉謙信)の力量を見極めようと、じっと陣を構えて動かない晴信(後の信玄)。景虎は「敵が姿を見せねば、我らが姿を見せてやる」と葛尾城を陥落させました。これを見て、晴信は静かに兵を引きます。その頃、湖衣姫は結核で病の床に伏せっていました。
晴信(後の信玄)が諏訪に駆けつけますが、時すでに遅く、湖衣姫はこの世を去っていました。晴信は、景虎(後の上杉謙信)との戦いに決着をつけぬまま甲斐の館に戻ります。その頃、諏訪の四郎(後の勝頼)が刺客に命を狙われました。助けを求める四郎の声は、禅寺で暮らす二郎(後の竜宝)に届き、晴信と太郎(後の義信)は諏訪へ馬を走らせます…。
晴信(後の信玄)は、今川の加勢に弟・信繁を総大将として送る一方で、北条と今川の和睦を探りました。上洛を目前にした今川義元。関東管領・上杉との戦いを控える北条氏康。天下を目指すそれぞれの思惑から、武田、北条、今川の三国同盟が結ばれました。越後と対峙(じ)する晴信は、これで南の脅威から解き放たれました。
弘治元年春、晴信(後の信玄)と景虎(後の上杉謙信)は川中島で二回目の対陣をします。武田軍は、一万余の軍勢。一方、景虎の軍は、村上義清ら奥信濃の豪族たちを加え、総勢一万。両軍が睨(にら)み合うこと二百日…。それは秋口まで続き、稲刈りを迎えた農民兵たちは浮き足立ちます。今川義元などの調停で、双方ともようやく軍勢を引きます。
景虎(後の上杉謙信)は、越後の国主として采(さい)配を振るう一方、自らを毘沙門天の生まれ変わりと信じていました。一方、晴信(後の信玄)は戦わずして景虎の力を弱めようと画策します。そんな折り、春日城では、景虎失跡の騒動が起きました。比叡山に登り僧侶になると言う景虎を、直江実綱は「誰が越後の国を守るのか」と諭します…。
将軍の座を狙う今川義元にとって、尾張の織田信長は上洛の邪魔でした。その信長からの使者が、今川を潰(つぶ)したいと晴信(後の信玄)に伝えてきました。晴信は高笑いし、「奸風発迷」と答えました。奸風発迷(かんぷうはつめい)とは、「今川に背く気持ちはあるが迷っている」という晴信の心を伝える言葉でした。
信長、景虎(後の上杉謙信)が次々に上洛しました。駿河で酒に溺(おぼ)れる日々を過ごしていた父・信虎は、夜桜見物の席で、側女・らんに別れの盃をとらせ、斬り殺してしまいます。甲斐の元国主として、しがらみを断ち切り、己の誇りを取り戻したのでした。そして、晴信(後の信玄)の上洛を強く望みます。
晴信は法名の信玄を名乗るようになっていました。織田と信玄が手を結んだことを知らない今川義元は、尾張の沓掛城に入り、敵などいないと高を括(くく)っていました。しかし、今川方の間者(かんじゃ)ではないかと思っていた山本勘助によって、義元の動きは信長に筒抜けでした。義元は桶狭間へ軍を進めますが…。
太郎は信玄に「妻の父・義元の敵を討つように」と懇願し、信玄と言い合いとなります。この一件で、父と子の間に深い溝が生まれました。一方、信長は駿河を攻め滅ぼしたわけではないと天下を見つめていました。景虎(後の上杉謙信)は、海津城改築を知り、信玄の動きに目を光らせていました。
景虎(後の上杉謙信)が関東管領の名のもと、関東制圧に動きました。信玄の妨害で、春になってようやく小田原城を取り囲みましたが、北条氏康は長期戦を睨(にら)み籠(ろう)城の準備を整えていました。景虎は「城を落とさずともよい、わしは姿を見せに来たのだ。わしは毘沙門天の化身じゃ」と天を仰ぎました。
永禄四年八月十八日、武田軍は甲府を立ちました。景虎は法名謙信を名乗り、善光寺平を見下ろす横山城に入りました。そして、姿を見せぬ信玄を誘い出そうと、妻女山に陣を張ります。海津城に入った信玄との睨(にら)み合いは二十日間続き、そして、ついに闇と霧にまぎれて両軍が動き出します…。
永禄四年九月十日未明、信玄は敵を挟み撃ちにする啄木鳥(きつつき)の戦法に出ました。一方、謙信も信玄の本陣は八幡平と見抜き、松明(たいまつ)を本陣に残して妻女山を下りました。謙信の素早い動きに信玄は苦戦しますが、越後軍の後方に回った武田軍が駆けつけ、謙信は無念の思いで撤退します。
川中島血戦で辛くも勝利した信玄でしたが、その代償は大きいものでした。弟の信繁、山本勘助ら、多くの兵を失ったのです。信玄は、総大将の采(さい)配に背いたとして義信に罰を与えようとします。一方、北条は武田と手を組み、関東から越後の息のかかった者を追い出そうとしていました。
信玄は川浦の湯に子・義信を同行させようとしますが、義信は拒否します。父と子の溝は深まるばかりでした。その頃、信虎は今川家の家臣たちに謀反(むほん)を煽(あお)り、寿桂尼の差し向けた刺客に命を狙われます。義信との深い溝に心を痛める信玄のもとにも刺客が迫っていました。
信玄は駿河攻めを決意しますが、子・義信は正義がたたないと反発し、信玄への憎悪を深めます。そして、義信は子守り役、飯富虎昌に謀反(むほん)の意を打ち明けます。虎昌は義信にまかせるわけにはいかず、自ら信玄を討とうとしますが失敗します。「悲しいぞ!」信玄は吐き捨てるように言うのでした。
子・義信は信玄に、謀反(むほん)の張本人は自分であることを訴え、切腹を願い出ます。しかし、信玄は義信を東光寺に幽閉しました。「父を他国に追い、我が子を幽閉したおのれに、鬼のごときものを感じてならん」信玄はそう思いました。飯富虎昌は最後まで義信をかばって切腹します。
信玄は東光寺に子・義信を訪ねました。そこで信玄は自分が父を憎んだごとく、義信もまた自分を憎んでいることを知ります。そして、二ヶ月後、信玄の四男・諏訪勝頼と信長の妹の子・雪姫との祝言が行われました。この縁組みが、甲斐の行く末を大きく変えることになろうとは知る由も無かったのです…。
永禄9年春、信玄は箕輪城攻めを決断しました。城攻めで勝頼は戦の才能を大いに発揮しました。今川は、塩を断って武田を窮地に追い込もうと策略をめぐらしていました。信玄はしばらく振りで幽閉先に義信を訪ねます。義信は久しぶりに見た日の光の美しさに感動し、その夜、自害して果てるのでした。
四男・勝頼の正室・雪姫の男子出産の知らせが信玄のもとに届きました。義信の生まれ変わり、信玄にはそう思えてならず、信勝と命名されました。義信の正室・おつねは、信玄への深い恨みを抱えたまま故郷駿河に戻されました。駿河が塩を止め、北条も今川の要請に応じて塩を止めました。三国の盟約は崩壊したのです。
織田信長は徳川家康と盟約を結ぶ一方、将軍足利義輝の弟・足利義昭と会見し、上洛の策略を練りました。信玄は焦りを感じます。「少々、急がねば」。しかし、信長はついに上洛し、足利義昭は十五代将軍の座につきました。天下は急に騒がしくなり、信玄は駿河へと動き出しました。
信玄は駿河攻めに動きますが、本当の狙いは織田信長でした。その手始めとして、家康を叩(たた)きます。そして、ついに信玄は駿府城に入城しました。家康は信玄の真の狙いが京への道であることを見抜いていました。そのため、家康は北条に和睦(ぼく)を求め、武田軍を挟み撃ちにしようとします。
北条、徳川、さらに上杉…三方を囲まれては、武田の軍勢とてかないません。信玄は一旦、甲斐に引き上げました。そして、永禄十二年秋、信玄は小田原城へと兵を進めました。わずか四日で軍勢を引く信玄に、氏康は「追い討ちをかけよ」と命じます。その頃、信玄の正室・三条の方は吐血していました。
自分が労咳(ろうがい)を患っていることを知った信玄は、急がねばと思っていました。小田原から戻って半年後、信玄は再び越後を攻めることになります。そんな折り、将軍家からの書状が届けられ、そこには「信玄の上洛を望む」とありました。信長の野望、自分の余命を思うと、信玄は初めて自分の力に疑いを覚えるのでした。
信玄は、駿河攻めの準備を進めながら越後との和睦(わぼく)の話を進めました。一方、輝虎(謙信)は北条との和睦を踏みとどまっていました。そして、信玄は再び駿府城を手に入れます。さらに元亀元年、三たび駿河に攻め入り、上々の戦果を上げました。しかし、その喜びを恨む者がいたのです。それは信玄の正室・三条の方の侍女・八重でした。
信玄は、勝頼ら重臣たちに刺客を放った八重を閉じ込めます。しかし、信玄の正室・三条の方の容体はますます悪化するばかりでした。八重をめぐって信玄と重臣たちの意見が食い違い、首をはねるべきとする重臣に対して、信玄は様子を見ることにします。こんなことで三万の軍は動くのか…重臣の山県昌景はそう懸念しました。
信玄の正室・三条の方を見舞うため、三条家から内大臣・正親町三条公兄(おおぎまちさんじょうきんえ)が、下向(げこう)しました。三条の方は、床をあげ拝謁(はいえつ)の挨拶(あいさつ)に現われますが、その場で倒れ、静かに息を引き取りました。信玄は三条の方の死に免じて罪を許しますが、八重は側室・里美の懐剣で自害しました。信玄にとって二重の死でした。子・竜宝は信玄に、上洛をあきらめるよう進言しました。
信玄は正室・三条の死後も、休むことなく駿河平定を急ぎました。そして、子・勝頼を城に迎えました。そんな折り、将軍家から「早急に京に上れ」との書状が届きます。その夜、信玄は、弟・信繁戦死の夢を見ました。輝虎(謙信)もまた、そのことを思い出していました。両雄は見えぬ相手に、自分の生き方を語るのでした。
信玄の軍勢は、相模の国境にまで迫っていました。そして、元亀二年春、初めて三河へ攻め入りました。一方、織田信長は、比叡山延暦寺に攻め入り、多くの僧侶などを殺害しました。その頃、北条氏康は病の床に伏していましたが、容態が悪化し、子・氏政に「甲斐と再び和睦(ぼく)せよ」と言い残して他界しました。
北条氏康の死によって、相模と越後との盟約は切れました。上洛についての軍議の最中、信玄は吐血します。幼少の頃より予知能力を持つ竜宝は、父・信玄の死をイメージしました。「西に向かわれてはなりません」と竜宝は信玄に進言します。その頃、「信玄が動く…」の報が織田信長に届きました。なんとしても止めねば、と信長は思いました。
信玄は、もはや長くは生きられないと悟りました。「西に光はない、されど西に向かわねばならぬ、それがわが定め…。」信玄は、側室の里美、恵理と杯を交わしました。そして、元亀三年十月三日、子・竜宝に見送られて出陣します。二万五千の兵を従えて京の都へ。家康そして信長との戦いの中へ。
元亀三年十月三日 武田軍出陣。二俣城を落とし浜松城へと向かいます。そして、十二月二十二日、三方ヶ原へ駒を進め、信玄は浜松城を無視するがごとく通り過ぎようとしました。激昂(こう)し出陣の下知(げち)を下した家康でしたが、「山津波のごとく、一気に襲う」武田軍の前にあえなく破れ、逃走しました。
野田城攻めを前に、信玄の容体が悪化しました。信玄は弟・信廉と子・勝頼に、「二つの力を一つにして光りを生み出せ。争いからは何も生まれぬ」と説きました。里美は信玄のもとへと馬を走らせ、看病にあたりました。そして、信廉が信玄の影武者として本陣に座り、野田城は一ヶ月後に落ちたのです。
尾張を目前にして、信玄は倒れました。一方、信長は将軍家との和睦(ぼく)に失敗し、緊張が高まりました。しかし、武田軍は長篠城へ退き動きません。その間に信長は、二条城を囲みました。父・信虎が三十年ぶりに病の床の信玄と対面し、「天下をとるのじゃ!」と叱責(しっせき)するのでした。
信玄は最期の時を迎えようとしていました。朝日が昇り、いまわの際の信玄の顔に光が射しました。「甲斐に光を!」そう言い残して、信玄は伊那の地で53歳の生涯を閉じます。信玄は数名の重臣たちによって、ひっそりと荼毘(だび)に付されました。そして、天正元年九月、勝頼が家督を継ぎ、甲斐の国主となったのでした。