2千種もの動植物が生息する釧路湿原を、工業開発から守ろうと奔走した人々の挑戦を再構成して伝える。昭和40年代、農地開発を妨げる釧路湿原は、地元住民から敬遠されていた。その一方で湿原にはタンチョウや希少なトンボ、果てしなく続くアシ原に魅せられた人々が観察に訪れていた。そんな中、湿原に火力発電所や工業団地を造ろうとする計画が持ち上がった。植物学者の田中瑞穂ら釧路湿原を愛する研究者らは、すぐさま保護協会を結成。開発阻止の根拠となる湿原の生態調査に乗り出した。調査に参加したのは、ほとんどが我流で観察を始めた素人研究家。彼らの3年間にわたる調査は世界でも珍しい湿原総合調査となり、やがて彼らは湿原保護の基本合意を取り付ける。
サンシャイン60ビルの高速エレベーター
プロジェクトX特選◇1966年の日本グランプリを制し、世界中を驚かせた旧プリンス自動車の技術者らのドラマを送る。64年、外国車の輸入自由化の余波で窮地に陥った同社は、生き残りを懸け日本グランプリに参加。メーカーとしては小規模ながらも、プリンス自動車にはゼロ戦のエンジンの主任設計者だった中川良一ら一流の技術者がそろっていた。名車スカイラインで挑んだ彼らだが、驚異のドイツ製スポーツカー、ポルシェ904を前に敗北。折しも会社は日産自動車に吸収合併されることになり、技術者らは合併前の最後のレースで意地を見せようと誓い合う。そして完成したのが、究極のレーシングカーR380だった。
東京オリンピックの開催に向け、わずか5年間で首都高速道路を造り上げた人々の挑戦を伝える。東京オリンピックは敗戦から復興した日本を世界にアピールする絶好の機会だったが、都心の交通渋滞が懸念されていた。都庁の技官らは、用地買収の必要がない川や道路の上を通る高架道路を造ろうと計画。しかし、4本の高速道路が合流する江戸橋ジャンクションには橋脚が100本必要な上に、ビル地帯には橋脚を立てる場所が少なく建設不可能だった。さらに羽田空港周辺の工事は地元の漁師の反対に遭った。計画は存続の危機にさらされるが、その時、日本各地の企業から加勢の声が上がる。
公衆衛生看護婦・沖縄県
1945年5月の大空襲で焼失した国宝・名古屋城の復元に尽力した職人たちの挑戦を伝える。終戦後、名古屋城の再建は市民の悲願だったが、建設費の試算は当時の金額で6億円。復興期の公共事業が続いて、とても出せる額ではなかった。そんな中、市内の商店主たちが街頭での募金活動や芸能人を呼んで野球大会を催すなど、名古屋城再建のPRに立ち上がった。55年、ついに市は名古屋城の再建を決定。建築基準法により、新たな城はコンクリートの耐火構造となった。ところが工事開始直後、石垣が建物の重さに耐えられないことが判明。さらにコンクリートでは伝統の曲線がどうしても出せなかった。その時、地元名古屋の左官らが名乗りを上げる。
高価な太陽電池を庶民でも買える値段にするため、30年に及ぶ苦闘を重ねた技術者らのドラマを送る。1959年に創業した京セラは、小さな電機部品メーカーとしてスタート。絶縁体部品セラミックスの研究をたった一人で確立した稲盛和夫が技術総責任者となり、技術を世のために使うという信念の下で会社は急成長していった。73年、石油ショックの影響でメーカーからの受注が減る中、稲盛は新しいエネルギーである太陽電池に着目。太陽電池に詳しいシャープの技術者、木村謙次郎を呼び寄せた。だが、もともと人工衛星の技術である太陽電池は当時1億円以上した高価なもの。それを庶民の手に届くものにするには、重要部品であるシリコン板のコストダウンが必須だった。
2年間で100万人の観客動員を記録した宝塚歌劇団の伝説の舞台「ベルサイユのばら」を実現させた人々の奮闘のドラマを送る。昭和40年代、テレビの普及によってスターの姿が手軽に見られるようになり、宝塚歌劇の劇場は空席が目立つようになった。当時、演出部門の若手スタッフだった植田紳爾は、フランス革命時代を舞台に華麗で過酷な愛の物語を描いた漫画「ベルサイユのばら」を舞台化しようと発案。ところが制作を発表すると、熱狂的な原作ファンから人間に演じられるわけがないと抗議が殺到した。猛烈な抗議に植田らの決心は揺らぐが、その時、"希代の二枚目"として活躍した映画スター、長谷川一夫が演技指導に現れる。
世界に先駆けて小型で高出力のロータリーエンジンを開発した自動車メーカー、マツダの技術者らの挑戦のドラマを追う。1982年、マツダに入社した田島誠司は、社内で伝説の部署と呼ばれていた「ロータリーエンジン設計課」に配属された。同社でロータリーエンジン開発のプロジェクトが生まれたのは、田島が入社する19年前。山本健一をリーダーとする技術者らは「飽くなき挑戦」を合言葉に5年という歳月をかけて世界初の革命技術を生み出した。輝かしい伝説を持つチームの一員となった田島だが、折しもバブル崩壊に直面した会社の業績は悪化。アメリカのフォード社の傘下に入ることになり、業務改革の一環としてロータリーエンジンチームの解体が決まってしまう。
2000年3月に放送した「富士山レーダー開発」。「プロジェクトX」の記念すべき第1回の放送。高精細な映像になって蘇る。台風から日本を守るために立ち上がった人々。
昭和63年開業した青函トンネル。19年かけ堀り抜いたのは、鉄建公団の技術者とトンネル工事専門の職人たち。犠牲者が出るほどの難工事。トンネルマンたちの壮絶な歳月。
昭和33年開業した東京タワー。地上333m、15か月という驚異的な突貫工事の末に完成した、当時では、世界で最も高い自立鉄塔。技術者と職人の意地と心意気の物語。
昭和39年新幹線は世界最高の速度で営業を開始した。日本の技術力を世界に見せつけた。開発に携わったのは、旧陸海軍の技術者たち。戦後復興の象徴となったプロジェクト。
北海道えりも岬200ヘクタールの砂漠緑化プロジェクト。森林を伐採し砂漠になった土地に、植樹する気の遠くなるような作業。やがて栄養分が海に流れ豊かな海に変わった。
昭和57年2月8日。災害史に残るホテルニュージャパン火災が発生した。高層階から、66人が奇跡的に救出される。そこに東京消防庁の精鋭部隊、特別救助隊の姿があった。
昭和49年、一台のコンピューターが世界中を驚がくさせた。富士通が開発した国産コンピューター「M190」。世界最速の演算速度を実現しあのIBMの性能をりょうがした
昭和38年に完成した黒四ダム。最大の壁は、断崖絶壁の黒部に60万トンの資材をいかに運ぶか。輸送実現のため計画された大町トンネル建設。携わった人々の壮絶なドラマ。
昭和28年暮らしを変える製品が現れた。日本初の噴流式洗濯機。頑固な汚れを7分で落とし、その上コンパクトなボディ。価格は外国製の半分。家電時代の幕開けとなった。
日本人が初めて生み出した世界規格VHS。それは当時、弱小といわれた家電メーカーの窓際技術者たちの意地の成果だった。大手が開発したベータとの激しい競争のドラマ。
昭和46年、日清食品は価格競争にさらされ業績が悪化していた。そんな中、社長の思わぬ発想をきっかけに起死回生の開発に挑む。世界中で欠かせなくなった食品の誕生秘話。
日本人の自動車への意識を覆した革命的な車、スバル360。一軒家と同じほど高価だった自動車をサラリーマンでも買えるほど安価にし、マイカーという言葉を誕生させた。
琉球王国の首里城は「壮麗な赤い城」と呼ばれた。しかし、昭和20年の沖縄戦で跡形もなく崩れ去った。故郷の誇りを取り戻すため、幻の赤い城の復活に挑んだ人々のドラマ。
小型で高出力、しかも清音。夢のロータリーエンジン開発に挑んだのは、マツダの技術者たち。リーダー山本健一は、妹を原爆で失った。47人の部下と共に歩んだ激動の日々。
昭和32年生み出されたダイニングキッチン。女性たちの家事のしやすさが追求され、台所で椅子とテーブルで食事ができるようになる。そこにはある夫婦の愛の物語があった。
自動でピントを合わせるオートフォーカスカメラは、かつて世界中の技術者から夢のカメラといわれた。商品化を世界で初めて成功させたのは、小西六の若き技術者たちだった。
昭和30年に開発されたトランジスタラジオ。世界各地で奮闘した営業マンの闘い。当時「メイドインジャパン」は「安かろう、悪かろう」の代名詞。その偏見を打ち破った。
“自動車王国・日本”誕生へ。昭和31年にトヨタ自動車が完成させた初の本格国産乗用車。執念の開発物語。トラックが売れず倒産の危機にひんする中、乗用車開発に挑んだ。
戦後初の国産旅客機「YSー11」の開発ドラマ。立ち上がったのは、戦中、数々の戦闘機を造りあげた5人のサムライたち。「航空大国・日本の技術を若い世代に伝えたい-」
日本初の国産旅客機の開発は模型の完成後、本格的な設計に入った。その実質的なリーダーは東條輝雄。若手を率いて試作機を完成させたが、横安定性などの問題が発覚する。
日本の流通を変えたコンビニエンスストアの草創期の物語。小売りの経験がない素人がチームを結成し、ゼロから独自の戦略を作りあげる。酒屋を改造した1号店。成功の鍵は?
最悪事故と対じした日本人医師。原発事故による放射性物質の影響で、子ども達に甲状腺がんが多発。なるべく傷あとが目立たない手術。訪問検診で術後管理。現地医師も共感。
空前のヒットとなったデジタルカメラ。10年にわたる開発の舞台裏。最初の商品は全く売れず、プロジェクトは解散。会社に黙って研究を続けた。他メーカーの技術者と協力。
昭和40年代、日本の企業は契約書の作成に追われていたが、数少ない和文タイピストに依頼するしかなかった。「誰もが使えるワープロを作ろう」東芝の技術者が開発に挑む。
戦国時代に焼失した薬師寺・金堂。5年の歳月をかけ昭和51年に完成した。400年前の姿を復元させる難工事に挑んだのは「鬼」と言われた宮大工と若い大工たちだった。
旧ソ連サハリンで3歳の男の子が大やけど。現地では70時間の命と診断された。両親は知り合いのつてを頼り北海道庁に連絡。東西冷戦末期、命を救おうと男たちが動き出す。
「戦後最大のサービス革命」といわれた宅急便の誕生を描く。企業などの大口荷物の輸送で稼いでいた時代、経営危機にあったヤマト運輸が個人相手の小口荷物の輸送を始める。
普通紙複写機(コピー機)で世界100%のシェアを誇っていたアメリカ企業。その鉄壁の特許網に挑み、新方式のコピー機を作り上げたカメラメーカー社員たちの壮絶な闘い。
1日の誤差わずか0.2秒というクオーツ腕時計。諏訪の時計店店主と若手技術者が開発に挑む。アメリカで誕生したクオーツ時計はタンスより大きいもの。どう小型化するか。
終戦後、倒壊寸前にまで荒廃していた姫路城。再建工事に挑んだ男たちのドラマ。全てを解体してから木を組みなおす前代未聞の難工事。鍵は高さ25メートルの心柱だった。
東南アジアから沖縄の島々に害虫・ウリミバエが飛来。1匹が千個の卵を野菜に産みつけ、腐らせてしまう。「本州への上陸を阻止せよ」ウリミバエ根絶のプロジェクトを描く。
「温水洗浄便座」の開発と普及にかけた会社員たちの逆転のドラマ。心地よい湯の温度やおしりの的の位置を一から実験。「不潔なトイレ」のイメージを覆す商品を作り上げる。
昭和41年、横浜で世界最大の船の建造が始まった。船体の長さ342メートル。積み荷は原油。当時の日本の1日の消費量を一気に運ぶ。全国から1千社36万人が集結する。
1989年光ファイバーを利用した海底ケーブルが太平洋を横断した。国際電話やインターネットなどの情報化社会を支える血脈。ケーブル開発と洋上での敷設の壮絶なドラマ。
昭和40年代、世界が驚く低公害エンジンを開発したホンダの技術者たちの熱きドラマ。若手と社長・本田宗一郎が激しく衝突。F1レースで培った技術が決め手の一つになる。
脳外科手術を格段に進歩させたレーザーメス。開発に挑んだのは医師と町工場の技術者たちだった。直進するレーザー光線をどうやって医師の手元に送るか。悪戦苦闘を重ねる。
昭和49年京都・伏見工業に元ラグビー日本代表の新米教師が着任。当時は荒れた高校で、ラグビー部の多くはツッパリ。涙を流しながらぶつかる教師が生徒たちを変えていく。
かつて指定券の予約は手作業で受け付け。半日かかることもあり駅では怒号が響いた。各駅の端末と東京のコンピューターを結ぶ、日本初のオンライン予約システム開発に挑む。
1972年日中国交正常化を記念して、中国から2頭のパンダがやって来た。カンカンとランラン。当時パンダは飼育方法が知られていない幻の動物。飼育員たちの格闘を描く。
骨髄バンク実現のため心血を注いだ人たちのドラマ。血液のがん白血病。運よく母親と骨髄の型が適合し、移植を受けた女性が、医師たちと日本初の骨髄バンクを作ろうと動く。
日本初の食器洗い機が世に出たのは昭和35年。アメリカ製品のものまねで“愚劣な商品”のレッテルをはられた。松下電器の若き技術者が、独自の日本型食洗機の開発に挑む。
世界ブランドのりんご「ふじ」を育てた青森の農家たちの物語。農林省園芸試験所東北支場で品種交配の末に開発された「ふじ」。伝説のリンゴ職人がリスク覚悟で栽培に挑む。
大人気の温泉地・湯布院をめぐる物語。かつては無名で、週末でさえ客がいない宿も。全国の温泉地で高層ホテルが建った時代、農村の緑と静けさを守ることで差別化をはかる。
昭和30年代、しょうゆをアメリカ市場に売り込んだ人たちのドラマ。当初は「昆虫のしぼり汁」とやゆされた。しょうゆベースのテリヤキソースを考えだし、販売網を広げる。
日本初のアラビア油田開発に挑んだ技術者たちの物語。敗戦後、石油の99%は輸入だった。サンフランシスコ平和条約の後、サウジアラビア沖合で洋上油田の開発に乗りだす。
昭和48年のオイルショック。日本中がパニックに陥った。新たな油田を開発し、石油を安定的に確保しなければならない。技術者たちは中東アブダビ沖の難所で掘削に挑む。
昭和40年、富山県警は県内の警察署から人員を集め、山岳警備隊を組織した。しかし山歩きの経験が浅い素人集団。北アルプスの麓の集落を訪ね、山歩きのプロの指導を請う。
昭和30年世界各国共同での南極観測計画が動きだす。日本に割り当てられたのは屈指の難所。予算もない中、老朽船「宗谷」を輸送船へと改造すべく多くの人が力を結集する。
昭和32年奇跡的に南極大陸に到達し、昭和基地を建設。当初は一旦、帰国する予定だったが、副隊長が越冬しての観測を主張。体力自慢の11人とともに命がけの挑戦をする。
第1部 逆境に挑む 第2部 魂を揺さぶる生き方
プロジェクトXの旅 〜日本人 魂の地へ〜 第1部 北へ・第2部 西へ