牢獄に入れられた曹操を裁くことになったのは、情状酌量や袖の下も一切受け付けない厳格な姿勢から、“洛陽の鬼神”と恐れられた橋玄だった。張譲は斬首の判決を下すよう脅すが、橋玄の姿勢はいささかも変わらない。孫・曹操の危機に、曹騰も張譲に圧力をかけた。
やがて、始まった審議で、曹操は、結婚相手の返還を求めた末に起きた事件で、正当防衛だと無罪を主張した。証人がいないという橋玄に対し、曹操は、天が全てを見ていたと証言。乱れ、病んだ世の中を正し、治めることこそ、自分に課せられた天命だと言い切った。曹操の言葉に嘘はないと察した橋玄は、その高い志に打たれたこともあり、無罪の判決を下した。
4年後、20歳になった曹操は、洛陽の北門の警備隊長である北部尉となった。部下たちを前に、曹操は、城内の風紀の乱れを正し、悪事を働く者を一掃する目的で、夜間の通行禁止を宣言。反抗したため棒打ちの罰を与えた宗鎰をあえて副官に指名することで、部下たちの統率に成功した。
そんなある日、大官と呼ばれる官僚のひとり蹇朔が夜間通行禁止令を破ろうとして捕まった。曹操は、この蹇朔に棒打ち22回の罰を命令。蹇朔が刑の途中でショック死したことから、曹操の噂は瞬く間に洛陽中に広まり、“北門の鬼”と恐れるようになった。だが、噂などまるで気にしない曹操は、政府を牛耳る宦官たちを粛清するため、『党錮の禁』に注目して、ある戦略を考えた。
『党錮の禁』というのは、数年前、腐敗しきった宦官政治を排除しようとして計画したクーデターが失敗し、首謀者・陣蕃ら100人以上が惨殺された事件。皇