呂布に投降した劉備があえなく投獄される中、曹操の5万の大軍は、夏侯惇、楽進の軍と共に徐州に進攻した。徐州は、5年前、曹操が何十万もの民を虐殺した地。怨恨に満ちた目を向ける村人を見た郭嘉は、敵が呂布だけではないと実感する。
一方、呂布の居城・下ヒ城では、軍師・陳宮が、曹操を撃破する策を説明していた。陳宮は、曹操軍が徐州内に布陣する直前、つまり行軍の疲労が頂点に達した時点で、張遼、高順の軍と共に、呂布が出陣し、相手の本隊を急襲すべきだと考えていた。
だが、呂布が採用したのは、陳宮が密かに曹操側に内通しているとにらんでいた軍師・陳珪、陳登父子の策―呂布には最もそぐわない籠城戦だった。話を聞いていた陳宮は、呂布が『民』という言葉に動かされたと気づき、ア然。そして、籠城が戦力を半減させる愚か極まりない判断だと知りつつも、陳宮は呂布に王者の風格を見た。
まもなく、下ヒ城を包囲した曹操側は、驚きの光景を目の当たりにした。城門が開くや、何と大量の槍を持つ兵を従えた呂布が単騎で出陣し、曹操軍の兵をまとめて串刺しにし始めたのだ。刺し殺された仲間の死体が累々と転がるのを見た曹操軍の兵たちは、恐怖に怯えて震え上がる。まるで散策でもするかのような呂布の出陣は、曹操軍と呂布軍の兵の士気を逆転。まさに武神と化した呂布の雄姿を見た陳宮は、歓喜に震えた。
呂布が城の全ての方角の門から“串刺し出陣”を始めたため、曹操側は、打つ手がなくなった。兵糧を運んでいた5万の青州兵が、城外で遊軍となっていた1万の張遼軍に襲われて大敗。泰山の山賊まがいの軍が呂布側