張繍軍の動きが活発になる中、許都の曹操は、兵士から抜擢した楽進の教育に余念がなかった。楽進の指導を命じられたのは、はるばる蜀から招聘した軍師の荀攸。曹操は、呂布が徐州をうまく治めているとの報告を耳にしながら、楽進に張繍軍を相手にした実戦教育を命じた。
荀攸と共に兵を進めた楽進は、単騎で敵軍に突撃する勢いがあった。張繍側の軍師・賈クは、進撃する楽進の部隊、さらに于禁の部隊を見て、地形を利用した策を巡らす。だが、その裏の裏をかいた曹操は、逆に張繍軍に反撃。楽進の初陣は、見事な勝ち戦となった。
その頃、徐州の呂布は、機は熟したとする陳宮の提言を受け、劉備軍への攻撃を開始していた。下ヒ城を出た呂布の大群に気づいた駐屯地の劉備は、あえて居城の沛城を捨てて逃げる作戦をとる。炎の勢いで進む呂布の軍を見た曹操側の夏侯惇は、側面から矢を射かけて攻撃。以前の呂布なら、この挑発に簡単に乗ったのだが、人間的に大きく成長した呂布は、微動だにしない。
劉備は、新たに呂布の下に集まった軍が、元董卓子飼いの優秀な部隊だと知り、焦りを隠せなかった。呂布軍の先鋒は、風のような速さで猛進しながらも、まるで隊列を崩さない騎馬隊。呂布軍から逃れるのが難しいと見た関羽は、自ら最後尾となって劉備と張飛を逃がそうと考えた。
まもなく、呂布軍先鋒の将・張遼と関羽の一騎討ちが始まった。この勝負が互角だと知った劉備は、逃走が困難と見て、呂布への投降を決意したのだった。