秀吉は新しく築城した淀城に入り浸り、淀が産むわが子の誕生を心待ちにしていた。秀長がめまいで倒れ、秀吉が心配しているところに、さとがなかの病気見舞いを許され、徳川家から帰ってきた。一族が喜び合っているとき、三成が五右衛門の子りゅうの死を告げに来た。りゅうは聚楽第の塀に秀吉を風刺する落書きをし、捕吏3人を斬った罪で、京都所司代に処刑されたというのだ。