秀吉は淀が産んだ子を鶴松と名づけて、大坂城に入れ、並外れた親ばかぶりを示していた。おねとなかは鶴松に会えず、寂しい思いを味わう。ある夜、五右衛門がなかを襲い、鶴松の居どころを教えろと大刀を抜いた。なかは身を張って教えず、五右衛門は「必ず鶴松は殺してやる!」と叫び姿を消す。天正18(1590)年の正月、おねは小田原の北条家から送られた冬桜数枝を飾り、病むさとを哀れに思い、夫・仲蔵を呼んで再会させた。