戦国時代末期、天正10年(1582年)6月、天下統一を目前にした織田信長は、家臣、明智光秀に備中高松城を攻めている羽柴秀吉を援護せよと命じた。信長への不満を口にする部下たちをなだめ、光秀は一路、備中へ向かう道を進んでいた。 ちょうど老ノ坂に差し掛かった時、ふと酒呑童子の首塚のことを思い出し、軍列を一人離れた。酒呑童子の首を取った源頼光は明智家をはじめとする武家の家々の祖先でもある。しかし、首塚で光秀を待ち受けていたのは、6年前に死んだはずの妻・ひろ子であった。 彼らが去った後の闇の中で、酒呑童子が笑った。「これで源氏の子孫がまたひとり減った」と。
信長が本能寺で果てた後、徳川家康は伊賀を経て三河に帰り出陣準備をするつもりであった。その途中の宿に、一人の伊賀忍者の下忍が忍び込んだ。伊賀忍者を迫害してきた織田信長に味方する家康を討ち、上忍になろうというのだ。 しかし、茶室で客人と談話する家康のすきを狙う彼をことごとく邪魔してきたのはその端整な顔立ちの客人であった。彼は忍としての意地を掛け、露天風呂に入浴する家康に襲い掛かった。が、それは家康と客人の罠だったのだ。
諸国武者修行中の林崎甚助は、背も低く身なりも汚らしい浪人であった。その甚助が、ある土地でもののけ退治を請け負うことになった。村では、もののけへの生贄に娘を差し出さねばならぬという。 甚助の他にも、もののけ退治に名乗りをあげた若侍がいた。その若侍・山田八右衛門と共に、彼は生贄に指名された娘の家に厄介になることに。娘と山田はすぐに恋仲になった。 生贄を差し出すその夜、甚助はもののけから見えなくなるという秘薬を体に塗って娘のそばに控え、山田が物陰に潜むこととなった。
幕末の京都、ある雨の夜、瓦版屋の娘・お駒は、不審な浪人を見事な太刀筋で切り倒した新撰組の沖田総司の姿を目撃した。暗闇で顔は分からなかったものの若く颯爽としたその様子が脳裏から離れず、お駒は、沖田のことを瓦版に書きたいと壬生通いを始める。 しかし見回りから帰ってきた一番隊を率いていた男は、少々年上の渋い感じで、想像していた沖田とは大分違う様子。局長の近藤勇と連れ立って出かけたその男を祇園まで追いかけたが、ふたりは乱痴気騒ぎを始め、慌てて逃げ出した店の外でお駒は一人の男とぶつかってしまった。 狐のお面をつけ風車を手にしたその男は、近藤と、お駒が沖田と思っていた土方を迎えに来たのだという。「もうすぐ剣の時代は終わる」と語る狐面の男は、不思議と爽やかな印象を残し去っていった。 沖田の本当の姿がまったく分からないままでいたある日、池田屋に新撰組が襲撃したとの知らせが。