<ラインナップ> 「北条時政を中心とする陣営」には、時政の後妻である「牧の方」、そして、時政の娘婿である「平賀朝政」がいた。そして、時政の息子である「北条義時の陣営」には、「義時の姉・政子」と時の将軍「源実朝」がいた。この両陣営が激しく対立し、次第に義時が頭角を現していくことになる。 ●1205年 北条時政は畠山重忠が謀反を企てているというあらぬ疑いをかけ、重忠を討伐する。すると、これがきっかけとなり時政と義時の「親子の対立」が激化していく。 ●さらに時政は、三代将軍実朝を失脚させようと画策。これに反発した義時は、実朝を保護し、政子と共に時政を追い込んで出家させ伊豆に追放した。 ●1213 年 北条義時は「鎌倉の13人」最後の有力者である和田義盛を粛清。(和田合戦) ●北条義時は“政所別当”“侍所別当”の役職も手にいれ名目上の政権トップとなる <内容> 今回は鎌倉殿の13人の争いの最終章。13人の中から北条時政が執権となり実権を握るが、子である義時と激しく対立していく。きっかけとなったのは、1205年、北条時政が有力御家人で畠山重忠を謀殺した事件。時政は後妻である牧の方の告げ口によって無実の畠山重忠を粛清する。しかし、それに対して子の北条義時と御家人たちが反発。さらに時政と牧の方は、政子の子である3代将軍実朝を廃し、自分たちの娘婿を将軍にしようと画策。政子と義時によって実朝は守られ、時政は伊豆に追放される。義時が2代執権になり、政子と姉弟の政権ができあがる。すると1213年、義時は、鎌倉殿の13人の中の最後のライバル和田義盛と争いになる。なぜ、二人は争うことになったのか、義時の謀略だったと疑われる、その経緯を詳しくみていく。