<ラインナップ> 鎌倉殿の 13 人による政治が始まるが、実権を握ろうとする北条時政と2代鎌倉殿・頼家を支持する梶原景時、比企能員との抗争がぼっ発していく。 ●1198年12月、源頼朝は、相模川橋の落成式に出席した道中で落馬。この二週間後に急死する。 ●その後、長男・頼家が2代鎌倉殿になるも政務に熱心ではなかったため、13人による合議制の政治がはじまる。そして、頼家を支持する御家人と 実権を握ろうとする北条との対立がどんどん深まっていく。 ●1199年11月、梶原景時の変が起こる。1203年5月、頼家は頼朝の弟・阿野全成を追放。さらに1203年9月、比企能員の変が起こる。 ●北条政子が頼家に引導を渡し、頼家は将軍の座を追われることに。弟・実朝が3代将軍に就き、北条時政が執権に就任する。 <内容> 日本初の武家政権・鎌倉幕府を成立させた源頼朝が53歳で急死。歴史書「吾妻鏡」には、頼朝の死の前後3年間の記録がなく、死因や状況が謎とされている。果たして頼朝の死因とは?頼朝の跡を継いだのは、18歳の長男、頼家。しかし、この若い鎌倉殿に頼朝の代から仕えていた御家人たちから不満が噴出し、頼家はわずか3か月で実権をはく奪される。代わって政治を取り仕切ったのが、「鎌倉殿の13人」。その顔ぶれとは。しかし、13人の中で、頼家を支持ずる御家人と、実権を握ろうとする北条家の間で主導権争いが起こり、謀略と暗殺の末に、頼家は失脚。弟の実朝が3代将軍となり、北条時政が将軍に代わって政務を仕切る執権となって、実権を握ることになる。そしてそれまで表舞台に立つことがなかった北条政子が、政治に関わるようになっていく。一方、失脚した頼家は伊豆に幽閉されるが、彼もまた非業の死を遂げることになる。