<ラインナップ> 藤原摂関家が少しずつ勢力が弱まり、日本全体を治めるためには貴族の力では厳しくなってきた。 武士の力がいよいよ大きくなっていき「貴族」の時代から「武士」の時代へ移り変わってい行く 。 ●1027年 藤原道長 が62歳で死去 ●その半年後、上総で「平忠常の乱」が起こるが、朝廷の命を受けた源頼信が遠征し鎮圧。 ●1051年 前九年の役 これを治めた清原武則は、蝦夷を抑える鎮守府将軍に。源義家は出羽守に就任 ●1083年 後三年の役 前九年の役に勝利し東北を手にいれた清原武則、その孫である清原真衡、家衡、清衡が内紛を起こす。この争いに源義家が介入し清原清衡を支援、清衡が生き残ることに。 <内容> 武士の勢力が拡大し、隆盛を誇った平安貴族の力は急速に衰えていく時代の転換期を紐解きます。1038年、比叡山延暦寺の僧侶が武装し、朝廷に押し掛けるというかつてない行動に出ます。本来、仏の道を学ぶ僧侶が、なぜ武装し、何を求めたのでしょう?1052年、藤原道長の長男・頼通は京都の宇治にあった別荘を寺に変え、平等院と名付けます。権力争いを生き抜いた藤原摂関家の長(ちょう)が あえて「平等」という言葉を使った理由とは?1063年、頼朝の祖先である源頼義(よりよし)が鎌倉の由比ガ浜に八幡宮を建立。後の鶴岡八幡宮へとつながっていきます。西国に拠点を置いていた源氏がなぜ、鎌倉の地を選んだのでしょうか?そのころ、源氏は東北で豪族が起こした紛争を武力で平定します。その結果、平定に協力した東国武士との信頼関係が深まり、源氏は一大勢力へと成長。やがて、この勢力は奥州藤原氏に繋がっていくのですが、その経緯とは?