<1600年> 6月16日 徳川家康、上杉景勝討伐へ出陣 7月上旬 石田三成が蜂起/佐和山謀議西軍が結成 7月17日 西軍宣戦布告/内府違いの条々 7月19日 西軍が先制攻撃/伏見城の戦い 7月25日 小山評定/家康が東軍を結成 8月23日 東西両軍が激突/前哨戦 岐阜城の戦い 9月1日 家康江戸城を出陣…西へ <内容> 関ケ原の戦いの3か月前— 徳川家康は豊臣政権安定のためとして、上杉景勝討伐のために会津へ向かう。その隙に石田三成が、家康討伐を宣言し、毛利輝元を総大将に西軍が結成される。三成の挙兵を知った家康は、上杉征伐を中止し、三成と戦うことを宣言。すると秀吉家臣の武将が「家康に付く」と結束し、東軍が結成される。実は東軍結成の裏で、家康の老獪な策略が…。 大坂城の淀殿と豊臣秀頼は、あくまで中立の立場を貫く。 東軍の先発隊に攻められ、西軍の拠点・岐阜城はわずか1日で落城。西軍は関ケ原の入り口にある大垣城を本陣と定め、戦力を集中させる。対する東軍は江戸から家康が、宇都宮から秀忠がそれぞれ西に向かう。