天正19(1591)年の初春、大徳寺金毛閣に置かれた利休の木像は天下人・秀吉への命がけの警鐘とうわさされ、その不遜を理由に三成や淀らは、「利休に死を」と秀吉に迫っていた。なかやおねは、利休の死で大陸出兵を主張する三成の動きが活発化し、豊臣家が分裂しはせぬかと憂慮する。秀吉は利休をどう処分すればよいか、食事も喉を通らぬほどに苦悩する。折から淀殿が産んだ世継ぎの鶴松が病み、秀吉の心労は甚だしかった。