天正10(1582)年5月、秀吉は銭と米で莫大な量の土俵を買い集め、高松城水攻めのための長い堤防を築いている。中国平定戦の要となるこの作戦に、信長は秀吉の活躍がうれしくてならない。それにひきかえ、光秀は家康の接待役を命じられ、吟味を尽くした能や料理も認められず、役を解かれ面目を失う。