<ラインナップ> 足利義満がついに南北朝の合一を成し遂げる。 ●1378年 三代将軍・足利義満は21歳と言う若さで右近衛大将に昇進。摂関家と並ぶ。 ●1381年 義満は将軍として初めて「花の御所」に天皇を招く。 ●1382年、25歳で左大臣に就任した義満は、次第に天皇家への圧力を強めていき、後円融上皇を失脚へと追い込む。この頃南朝では、強硬派と言われた長慶天皇が譲位し、次の天皇が即位したため、義満にとってはやりやすい環境が整いつつあった。 ●1390年 足利義満と土地の支配を強める守護大名との間で対立が激化。しかし義満は一つ一つその勢いを削いでいき、自分の支配を揺るぎないものにしていく。 ●1392年 室町幕府の力は強大なものとなり、南朝を担ぐ勢力も消えていった。足利義満は武家・公家の権威を確立し、ついに57年ぶりに南北朝合一を果たす。 【内容】 今回は、足利義満が朝廷の中でも地位を登りつめていき、ついには、南北朝合一を成し遂げるまでを見ていきます。足利義満は1378年に右近衛大将(うこのえたいしょう)に就任。その後、わずか4年で、内大臣・左大臣と異例のスピード出世を成し遂げますが、義満は一体、何をしようと考えたのでしょうか?さらに!義満は1390年以降、土岐(とき)氏や山名氏など有力な地方の守護大名を次々と討伐していきます。これにはどんな狙いがあったのでしょうか?1392年、義満の力によってついに南北朝が合一します。長い間、南朝が持ち続けていた「三種の神器」が北朝へと渡されます。この時、義満と北朝・南朝の、それぞれの思惑はどうだったのでしょうか?