<ラインナップ> ●660年 唐・新羅 連合軍により百済が滅亡 斉明天皇 中大兄皇子は百済の救済を決定 ●663年 「白村江(はくそんこう)の戦い」倭軍数万人で攻撃も歴史的大敗 ●667年 中大兄皇子は外敵に備えるため近江大津宮(おうみおおつのみや)へ遷都 翌年、第38代 天智天皇として即位 ●670年 初の戸籍「庚午年籍(こうごねんじゃく)」を「中央集権化」政策として作成 <内容> ヤマト王権が朝鮮半島で唐・新羅連合軍との戦いに挑んだ「白村江の戦い」を中心に見ていく。660年、唐・新羅軍によって滅ぼされた百済を助けるために倭国は朝鮮出兵を決定する。661年、斉明天皇は高齢にも関わらず中大兄皇子とともに自らも筑紫へ出兵。斉明天皇は出兵先の筑紫で崩御、陵墓はどこにあるのか?2010年の調査で最新情報が出てきている。663年、倭国は結果的に朝鮮半島の白村江で歴史的な大敗を喫し、664年以降、中大兄皇子は国内防御を急造。山城を次々と建築したり、沿岸部に防人を配置する。667年に都を飛鳥から内陸部の近江に移したのも、国内防御策のひとつだった。全国徴兵の足掛かりにするため、初の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成する。668年には中大兄皇子は天皇に即位。第38代、天智天皇となる。天智天皇の盟友・中臣鎌足は669年に死去。死の直前に、天皇から「藤原」姓を授かる。