「歎異抄」には、私見によって教えをゆがめる「自己の偽物性」から脱け出し、迷いと救いの間で宙吊りになりながらもそれをあるがままに受け止めていく生き方が示されている 唯円は、常識的な社会通念から親鸞の教えをゆがめ自分の都合のよいように解釈する人々の異義に、一つ一つ反論していく。そこにあるのは、何をするにも自分を軸としてしか行動できない、全てに対して自分というフィルターを通してしか考えられない、かなしい人間の性。「歎異抄」には、そうした「自己の偽物性」から脱け出し、迷いと救いの間で宙づりになりながらも、それをあるがままに受け止めていく生き方が示されている。