ジョン・レノンが1980年11月にリリースしたアルバム『ダブル・ファンタジー』からの先行シングルとして10月にリリースされた「スターティング・オーヴァー(Just Like)Starting Over」。 1975年に息子ショーンが生まれると、ジョンはショーンが5歳になるまで「主夫」として生き音楽活動を封印すると宣言。 音楽業界と完全に線を引いてしまった。 世界中がジョンの再始動を願う中、5年ぶりの復帰作として制作されたのがこの曲だった。 アルバムのレコーディングは1980年8月にNYで行われたが、当初そのプロジェクトは極秘で、参加するミュージシャンにも誰のセッションかは秘密にされたという。 それは5年ぶりにジョンが音楽業界に復帰するとなれば、マスコミもレコード会社も騒ぎたてるであろうことを避けるためでもあった。 アルバムリリースに向けて先行リリースされた「スターティング・オーヴァー」は順調にチャートを駆け上がり、ジョンもその成功を喜んでいた。 しかし・・・1980年12月8日ジョンは凶弾に倒れる。 ジョンの死後「スターティング・オーヴァー」はチャート1位となるが、その結果はあまりに切ないものだった。 ジョンの復帰作のプロデューサー、そしてレコーディングに参加したミュージシャンが、この曲を、アルバムを、そしてジョンの最後となってしまった音楽活動を語る。
1970年代の後半にフランスから登場し、繊細なピアノタッチ、貴公子然としたルックスで大きな人気を集めたリチャード・クレイダーマン。 彼の名を一躍世界に広めたのが、デビュー作の「渚のアデリーヌ」だ。 この曲を生み出したのは、パリで活動していた2人の音楽家、オリヴィエ・トゥッサンとポール・ド・セヌヴィル。 ミッシェル・ポルナレフやミレイユ・マチューらに曲を提供していた2人は共同で新しいレーベルを立ち上げたところだった。 ある時ポールは幼い娘アデリーヌのことを想い、美しいメロディを書き上げた。 この曲を大切にレコーディングしたいと考え、イメージに合うピアニストを探しはじめたオリヴィエとポール。 そんな2人の前に現れたのが、当時23歳のピアニスト、フィリップ・パジェスだった。 やがてフィリップは「渚のアデリーヌ」を携え、リチャード・クレイダーマンとして世界へと羽ばたいていく。 3人の出会いにはいったいどんな物語が秘められているのか… 番組では、リチャード・クレイダーマンをはじめ、この曲を書いたポール・ド・セヌヴィル、プロデューサーで、デビュー以来マネージャーも務めるオリヴィエ・トゥッサン、また、曲のタイトルを捧げられたポールの娘、アデリーヌらを訪ね、この曲の誕生について探っていく。