<ラインナップ> 戦国時代のきっかけとも言われる「応仁の乱」が始まる。これまでは「将軍家の後継者争い」が原因と言われてきた「応仁の乱」だったが、実は様々な要因が複雑に絡み合い起こっていた。その真相に迫る。 ●1445年 8 代将軍義政は日野富子を正室に迎えるも、なかなか継子に恵まれなかった ●1460年 三管領のひとつ 畠山家の家督争い激化。同じころ、斯波家でも家督争いが生じていた。この影響により細川の影響力が強まることに。 ●1464年 義政は、僧侶となっていた弟・義視を還俗させ、後継者にする。しかしその後すぐに、富子が長男・義尚を出産。 ●1466年 文正の政変が起こる。 側近・伊庭貞親が「義視が謀反を企んでいるので、殺害すべき」と義政に進言。しかし、これは「嘘」であることが、やがて発覚する。貞親は京から近江に退くことになり、幕府には、細川と山名の 2 大勢力が残った。 ●1467年1月、畠山家の家督争いが激しくなる。畠山義就が畠山政長がいる上御霊社を襲撃。これが引き金となり、いよいよ応仁の乱が始まる。 ●1467 年5月 細川方が山名方へ攻め込む「上京の戦い」が始まり、両者は全面戦争へ突入。 ●幕府を味方につけた東軍(細川方)は、兵力で大きく西軍(山名方)に勝っていたが、西軍は徹底抗戦に出たため勝負は膠着状態に。 <内容> 1467年から11年にわたって続いた応仁の乱。京を中心に西日本各地で160以上もの戦いが繰り広げられ、室町幕府の衰退を招き、戦国時代への入り口となったこの戦乱は、日本の転換点になったとされている。かつては、8代将軍足利義政の正室・日野富子が、長男を次期将軍にするために反対派と対立したことが、応仁の乱の原因とされてきた。しかし、最近では、応仁の乱に日野富子はほとんど関係していないことがわかってきた。応仁の乱は有力守護の家督争い、将軍の後継問題、幕府内の勢力争いの3つの要因が絡み合って、京の勢力を二分する戦乱に発展したと考えられている。そして、これらの問題に介入し、さらに複雑に拡大していったのが、足利義政だった。今回は、応仁の乱がいかにして始まったのか、そして足利義政はどのように動いたのかを中心にひも解いていく。