<ラインナップ> 日本が初めて外国から本格的な侵攻にさらされたモンゴル襲来。 今回は「文永の役」に焦点を当てる。 ●1230年 モンゴル帝国が次々と「領土」を拡大し、「金」「高麗」に侵攻を開始する ●1260年 フビライ・ハンがモンゴル帝国第5代の皇帝に即位 ●1268年1月 モンゴル帝国フビライ・ハンの国書が大宰府に到着。 この書を見た公家や武家は驚き、すぐに協議に入るが、これを無視することに。 ●翌年・翌々年にも国書が届くが、北条時宗はこれも無視。 ●1274年 10月モンゴル・高麗連合軍が日本を襲撃。 日本軍は苦戦し 博多への上陸を許すも、10月20日突如「元」と「高麗」の連合軍は撤退する。 <内容> 今回はモンゴルから大軍が日本を襲う、いわゆる元寇・文永の役を中心にお送りする。1200年代、モンゴル帝国は世界最大と言われるほど領土を拡大していた。モンゴル帝国の強さはどこにあったのだろうか。この頃、日本では北条家が代々の執権を独占していた。そうした政権のもと制定されたのが「御成敗式目」だ。その後の日本に大きな影響を与えたという「武士の法律」。一体どういったものなのだろうか。モンゴル帝国は国名を「元」に変え日本を襲う。日本の武士は元軍の戦い方にとまどい、「てつはう」といった未知の武器に苦戦する。だが元軍は一夜にして姿を消した。これまでは「台風に襲われ撤退していった」とされてきたが、最近ではﻩ台風は無かったと言われはじめている。元軍はなぜ消えたのだろうか。