福岡県大牟田市で生まれ、熊本県荒尾市で育つ[3]。実家は万田坑のそばで、父は炭鉱マンだった。本名の「健一」は、「健康第一」という願いを込めてつけられたもので、弟・康次(診療放射線技師をしている)と一字ずつとって合わせると「健康」となる。炭鉱の街の炭鉱住宅に住み、みな生活レベルが同じだったため、貧富の差を感じたことが無かったが、中学生の時、神奈川県に住むいとこが遊びに来た際に、「汚いから」という理由でヒロシの家に泊まらずホテルを利用したことから、初めて自分の家が貧しいということを知った[4]。1981年の秋、ヒロシが小学4年生の時、父親が仕事中の落盤事故で左ももから下を失った。炭鉱の落盤事故は珍しいことではなく、近所を歩けば片足を失った炭鉱マンと頻繁にすれ違っていたヒロシにとって見慣れていたが、父親が左脚を失った現実はなかなか受け入れることが出来なかったと語っている[5]。父はその後、炭鉱の保健課の事務職として働いていた。父は読書家で教養のある人物だった。勉強に関しては厳しく、ヒロシが宿題で分からないところがあると叱られたり、家の外に締め出されることもあった。ヒロシ自身は父が勉強に厳しかった理由は、自分のように危険な仕事ではなく、大学を出て安定した企業でサラリーマン生活を送るという道を息子に歩ませたかったのではないかと考えている。反面、父は身体を使う仕事に誇りを持っており、ヒロシが高校生の時に、飲食店の皿洗いのアルバイトをすると激怒して辞めさせたが、土木作業や駐車場整理のアルバイトは応援してくれた[6]。 ヒロシが小学生の頃、漫才ブームの真っただ中で、特に好きだったのがツービートの漫才だった。「芸人」という職業に衝撃を受け、自然と憧れの気持ちが強くなったのもこの頃だった[7]。小学生の時、家族に頼み込んでなんばグランド花月に行き、初めて生のお笑いライブを観劇。その中でひときわ面白かったのが、全国区になる前のダウンタウンで、劇場の外で待つ多くの女性ファンを見て、「お笑いで頑張ればこんなにモテるんだな」と衝撃を受けた[8]。小学生時代のヒロシは暗くいじめられっ子で、担任教師にさえ嫌われていた[7]。中学は地元の荒尾市立荒尾第三中学校に進学。中学三年生の時の三者面談で、初めて「芸人になりたい」と打ち明けたが、教師に軽くあしらわれた[9]。 熊本県立荒尾高等学校卒業後、指定校推薦で九州産業大学商学部商学科に進学。大学一年生の時、男友達2人を誘ってトリオ「貴族」を結成し、吉本興業が主催するお笑いオーディション番組「激辛!?お笑いめんたい子」(テレビ西日本)に応募[10]。テレビ熊本で行われた熊本予選に参加するが不合格[11]。折しも大卒のため就職氷河期の始まりの時期と重なり、就職活動で大阪府や福岡県などの企業を数社受けたが全滅。就職が決まらないまま大学を卒業し、実家に帰りしばらくダラダラとした生活を送る。その後見かねた両親が知人の伝手で保険会社に就職させ損害保険の営業の仕事に就くも、極度に人見知りの性格であったため営業の仕事が務まらず、サラリーマン生活自体不向きだと考えるようになり、入社から半年後、身内を一通り保険に加入させたところで退職した[12]。23歳のとき、再び「激辛!?お笑いめんたい子」のオーディションに挑戦。前回一緒に出場した男友達2人には断られた為、1人で出場し、中森明菜や近藤真彦の物真似を披露。結果は不合格だったが、福岡吉本のスタッフが不合格者の中からどうしてもお笑い芸人になりたい人を募った。前回出場したときも同じような声かけはあったが、その時は勇気がなく手を挙げられなかった。しかし、2度目の挑戦のときは会社員として挫折を経験していたため、「もう逃げ道はない」という強い気持ちで、そのスタッフに連絡した